1999年6月号
人モノ地域2


エリニキ・デモクラティア

福井医科大学講師 高山一夫



 筆者は、 昨年 (1998年) 6月、 ギリシアを訪問する機会に恵まれた。 訪問の目的であった世界保健機関・健康都市プロジェクトについては、 青木郁夫阪南大学教授による論説が 『協う』 第45号 (98年6月号) に掲載されているので、 以下では筆者がギリシアで感じたことをつらつらと書きつづることにする。
 ところで地球上には、 ギリシアという国は存在しない。 エリニキ・デモクラティア、 「麗しの共和国」 とでも訳そうか、 とにかくこのエリニキが、 正式な国名である。 Greekとはローマ人の用いた言葉らしいが、 別段嫌がることなく自らをグリークとも称するあたり、 Japanと似ているのかもしれない。
 日本人との大きな違いは、 エーゲ海に突き出たこの半島に住む人々が、 過去二千年にわたり、 他国の軍事占領下にあったことである。 マケドニア王アレクサンドロス以来、 ローマ、 ビザンティン、 さらにはオスマン帝国によって支配を受け、 自らの国家を再建するに至るのは、 ようやく19世紀のことである。 アテネ市街を鳥瞰すると、 パルテノン神殿 (語義は 「処女の館」) やオールド・アゴラと並んで、 ローマ皇帝の凱旋門やモスク (イスラム教会) もまた堂々と構えており、 さながら地中海世界の興亡を一望するかの風である。 今世紀にはいっても、 第二次大戦中には枢軸国軍が進駐し、 また戦後は冷戦構造のなかで大規模な内戦が繰り広げられるなど、 翻弄され続けた。 今日のギリシアは、 1951年のNATO加盟、 52年の内戦終結=新憲法公布、 そしてアメリカの経済援助 (マーシャル・プラン) によって、 出発したといえる。 とくに経済援助には恩義を感じているようで、 筆者が宿泊したホテルのすぐそばに、 トルーマン米国大統領の巨大な銅像が建立されていた。
 こうしてギリシアは、 古典古代の時代以降、 他のバルカン諸国と同様、 侵略と抵抗との複雑な歴史を経てきたわけであるが、 しかし同時に、 コソボ空爆への反対を早くから表明していることにも示されているように、 いわば地中海世界としての連帯を希求しているようである。 国際会議でこれを感じたエピソードを一つあげよう。
 国際会議では、 英語が一応の共通語として採用されていたが、 これが各国各様の、 日本人的英語感覚からは全くでたらめである。 分科会でも様々な国から報告者が集まっていたが、 語尾を長音化するギリシア英語ならまだましで、 語末に強母音がつくイタリア英語などうっかりすると変な京都弁に聞こえてくる。 司会の女性のみが正確な英語を流暢に操っていたが、 後で聞いてみるとザグレブ人であった。 音声学的にいかにもまちまちな英語であるが、 しかしそれでも参加者たちは報告と談笑をつづけ、 最終日にはなんと手に手を取り合ってダンスを演じさえもした。 連帯とは、 言語や文化の違いを超えて、 文字どおり手に手をとりあうことである、 筆者はそう確信した。 となれば、 協同もまた、 言語や文化、 民族対立の壁を超えねばならないのではないか。
 とはいえ、 正直なところ、 筆者は極東の人間であるとの疎外感を強く感じた。 やはり地中海世界は遠すぎるというのが実感である。 おもしろいことに、 パーティで同席した台湾人もまた同じ感慨を抱いたようで、 そこから話がはずんでいった。 やはり日本人は東アジア世界の一員であったのだ。 協同についても東アジア世界という観点から考えてみることが案外重要なのかもしれない。 さしあたり 「新ガイドライン」 だけは認めてはならない。



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