1999年6月号
コロキウム(論文)



伝えることと伝わるもの
   ~コミュニケーションが仕事となるとき~
佛教大学講師 山本 桂子


1. 問われるコミュニケーションの現在
 いくつかの看護学校で、 私は現在、 コミュニケーションに関係する科目の講義を担当している。 そのほとんどの学校が、 1、 2年前からのカリキュラムの変更に伴い、 教養科目にも重点をおきはじめている。 その結果、 私が担当するこれらの講義の時間数は約1.5倍に増えてしまった。
 近年の科学技術の高度な発達は、 救命措置を大幅に向上させたという点においても医学分野への貢献度は高い。 そして、 患者の治療に必要な情報は、 医師や看護婦 (看護士) といった医療者へ、 より高度に精密化された形で伝えられるようになった。 しかしながら、 一方では、 1990年以降、 さらに注目され始めたインフォームド・コンセント、 ターミナル・ケア、 デス・エデュケーション、 QOL (quality of life)といった、 基本的にはメンタルな部分のケアを目的とした問題が取り沙汰されている。 これらは、 直接的な人間-人間のコミュニケーションから得られる情報を重視することからも、 コミュニケーションの在り方の重要性を強調する姿勢をもっている。 それゆえ、 もっとも頻繁に患者と接する看護婦 (士) を中心とした医療者と患者やその家族との、 より豊かなコミュニケーションの在り方が問われている時代なのである。 そして、 看護学校は看護におけるコミュニケーションの位置付けなど、 仕事としてのコミュニケーションを認識していく素地作りを、 担わされているのであろう。
 しかしながら、 当の学生はというと、 「コミュニケーション」 などという日常生活の中に埋もれているようなあたりまえすぎるものについて、 わざわざ学習することに、 最初は少々戸惑いを抱く。 それは、 コミュニケーションが次々に生起する 「感情」 を鍵として展開していくものであり、 しかも、 その 「感情」 は、 あたかも意志でコントロール不可能 (普通は感情を自由に発生させたり、 変化させたり、 消失させたりすることは難しいといわれる意味において) とされたり、 あるいはコントロールすべきものではないというように神秘化されていること。 それゆえに 「好き-嫌い」 や 「快-不快」 の感情などは、 個性のように個々人に委ねられていることからくる違和感でもあろう。
 学校教育においても、 いじめや学級崩壊といった、 さまざまな問題を含んだ教師-生徒の関係、 家族関係の変容にともない微妙なバランスを保ち始めた親-子の関係など、 コミュニケーションが担わされた役割の大きさが浮上してくる。
 これは、 コミュニケーションが自然に成り立っていたり、 コミュニケーションをとることそのものが重視される時代ではなく、 どのようなコミュニケーションが求められるのか、 そして、 さまざまな社会関係の中に意識的にコミュニケーションをどう位置付けていくかが、 今求められているということではないだろうか。
 生協も例外ではない。 現代社会のさまざまな変化にともない、 生協の在り方も変化していくものであろう。 特に現在の共同購入においては、 ライフサイクル・ライフスタイルの変化と人々の意識の変化の相互連関を踏まえて、 組合員とのコミュニケーションをいかに考えていくかが重要な課題になっているように思う。 そして、 直接組合員と接している配達担当者が、 この重要な役割を担うことになるのである。

2. 「まぁまぁとれてる」 (?) コミュニケーション
 先日、 ある新聞の投稿欄に高齢の男性からの声があった。 大まかな内容は次のようなものである。 '最近の生協やコンビニでは、 レジで店員とお客が無言でやり取りをする。 店員も 「いらっしゃいませ」 と言わないし、 お客も 「こんにちは」 とも言わない。 何と寂しいことか'といった具合である。
 私たちは、 「言い方」 というものが、 「言っている内容」 と同じくらい重要であることに気付いている。 つまり、 コミュニケーションにおけるメッセージの内容はもちろん重要であるが、 それと同様に感情や情緒が伝わりやすい 「言い方」 というのも重要だということである。 この場合、 「いらっしゃいませ」 という言葉の内容に意味があるのではなくて、 その言葉が発せられることに重要な意味があるといえる。 よって、 「いらっしゃいませ」 という言葉が 「ない」 ということに、 よい意味がもたらされなかったのである。 この男性は、 こういった店員とお客のやり取りに、 何か殺伐とした寂しさを感じてしまったのであろう。
 感情は心の中に起こる主観的な精神活動であり、 より客観的な判断活動である 「理性」 と対照的であるとされる。 特に、 怒りや憎悪といった感情が表面化すると、 コミュニケーションに重大な障害が生じることは言うまでもない。
 さて、 昨年実施した共同購入コミュニケーション調査 (くらしと協同の研究所の共同購入研究会が京都生協のある共同購入支部の協力を得て実施) でも、 興味深く、 注目すべき結果が得られた。 その中で、 配達担当者に組合員との会話についてのいくつかの質問項目がある。 結果は、 配達担当者の35%が配達時に組合員との会話が 「良くある」、 61%が 「まぁまぁある」 と答えている。 また、 71%が組合員との会話を楽しみにしているというのである。 しかし、 会話の機会は、 61%が今のままでいいと答えている (もちろん、 配達時に班にとどまることができる時間に余裕がないということも考慮しなければならないが)。 楽しみにしていて、 まぁまぁあるという組合員との会話を通して、 配達担当者は組合員にいったい何を伝え、 何を知ろうとしているのだろうか?

3. 共同購入コミュニケーション調査の事例から
 この調査で記述されたコミュニケーションの事例を分析してみると、 より豊かなコミュニケーションのために必要なことが、 いくつか見えてくるように思われる。
1) 一人一人を大切にした関係性づくり
2) からだは語ることを知る
3) コミュニケーションの手段の違いを知る
4) コミュニケーションの質をチェックする
 これらの4項目についてそれぞれ見ていくことにする。

1) 一人一人を大切にした関係性づくり
 第2子が生まれた組合員の子ども (第1子) に 「お兄ちゃんらしくなって、 頼もしいわー」 と声をかけたり、 前回の配達時に風邪をひいていた子どもに 「治ってよかったなー」 と目線を合わせて声をかけたという事例がある。 これは、 共同購入の活性化に即結び付くものではない、 ほのぼのとした周辺部分のコミュニケーションのように思われる。 しかし、 この話題を口にするには、 組合員一人一人の背景にまで目配りされた細やかな情報の収集が必要である。 このような声をかけることは、 親密性や好感が構築されるひとつのきっかけになりやすく、 こういった好意的な関係の上にこそ、 積み上げられていく商品の情報、 苦情・要望がある。 つまり、 配達担当者が組合員に新商品のプレゼンテーションを行う場合も、 あまり好感がもてない人よりは、 少なくとも聴く姿勢は作られているだろうし、 苦情・要望が素直にお互いの心に届くのではないだろうか。

2) からだは語ることを知る
 不快な思いをしたという事例である。 商品の中に、 自分自身が注文していたわけではないが、 ひどくいたんで、 黒くなってしまっているバナナがあったので、 「あっ、 いたんでる」 と言ったところ、 担当者はブスッとなって無言だったというのである。
 また別の事例では、 顔つきが急に変わったり、 機嫌がいいときと悪いときとがはっきりしていて、 機嫌が悪いときは無言になったりして、 こちらも気分が悪いといった記述もある。
 バナナの事例では、 担当者は、 何がしか不快な感情を抱いたのであろうが、 自分の感情を口にしてはいない。 しかし、 無言だからといって、 担当者の感情が組合員に伝わらなかったわけではない。 残念なことに、 担当者の表情は不快なメッセージを明確に伝えてしまっている。 2つめの事例も同様であるが、 「無言」 でいることは、 どのような状況で起こったかによって、 実にさまざまな意味をもたされる。 しかも、 「無言」 でいることが、 かえって、 しぐさ、 視線、 表情などにより一層注目させてしまうことになるのである。 この担当者の 「無言」 のメッセージは、 明らかに不快な表情に意味を補足させながら、 コミュニケーションを継続させている。 しかも、 建設的ではない方向に、 である。
 さらに別の事例は、 缶内部のコーティング材について、 環境ホルモンの不安から質問した際のことである。 担当者は、 後日、 資料を持ってきて丁寧に説明してくれたが、 その資料を 「いらなければこちらで引き取ります」 と言って、 渡したくないようすを見せたというのである。 そのために、 その組合員は結局、 受け取らなかったのである。 なぜ、 担当者は資料を渡したくなかったのかは分からない。 しかし、 これでは、 せっかく調べた行為が十分に組合員に伝わらないどころか、 かえって不信感を抱かせている。 人間は、 言葉で話していることと、 言葉以外の行動 (しぐさや表情など) が矛盾しているときは、 言葉以外の行動によって、 本当の気持ちがリークする。 そして、 メッセージを受け取る側も言葉以外の行動のメッセージを優先することが明らかにされている。 身体は何らかのメッセージを伝えるメディアなのである。 そして、 それは感情の指標でもあることを十分に理解しておかなければならない。

3) コミュニケーションの手段の違いを知る
 電話は、 担当者と組合員との間で、 実によく使用されるメディアである。 そして、 電話は視覚的な情報が遮断され、 聴覚的な情報に頼らざるを得ないメディアでもある。 しかし、 それは、 逆に唯一の手がかりとなる音声から多くの情報を得ようと、 非常に集中力を高めるメディアであるということもできる。 それゆえに、 対面していれば、 他のしぐさや表情で補えるくらいの言葉の不充分さも、 ときには思わぬ誤解を招くことになりかねない。 言葉足らずを、 表情は助けてくれないのである。 電話を使ったコミュニケーションは、 伝えるべき内容に意味がある場合と、 電話することそのものに意味がある場合がある。 まず、 メディアの特徴を理解し、 どちらの意味が優先される電話なのかということにも留意しなければならないだろう。
 次は、 このような特徴を持つ電話が非常に効果的に利用された事例である。 身内に不幸があって、 急に品物を受け取れないと電話をしてきた組合員に、 まず、 「急なことで大変ですね、 お悔やみ申し上げます」 と、 言い添えられる担当者の資質の高さは強調されるべきであろう。 そして次に、 この組合員がもっとも伝えたい内容に対し、 品物がいたまないような方法で、 仕分けして届けることを丁寧に適確な説明をしている。 担当者は、 この組合員の電話は、 内容がより重視されていると判断し、 それに合った対応をしている。 さらに後日、 この担当者は品物が受け取れたかどうか、 確認の電話を組合員に入れている。 これは、 明らかに電話することに意味があった。 電話だからこそ伝えられるメッセージがある。 それは、 手段である電話そのものをメッセージにしてしまうことである。 この担当者にとっては、 日常の行動の1つにすぎなかったのかもしれない。 しかし、 これが 「日常」 といえるならば、 コミュニケーションの高さを感じるのである。

4) コミュニケーションの質をチェックする
 非常に注意すべきいくつかの事例がある。 例えば、 ブリを購入したときに、 虫が入っていたので担当者に言うと、 担当者は 「よくわく虫なので大丈夫」 と言ったというのである。 そして、 この組合員は、 「もう、 ブリは買わないことにしました」 と記述している。
 別の例ではこうである。 クリスマスケーキを注文した際、 時間きっちりに出ていてほしいと言われた。 約30分も待ったのに、 「遅れてすみません」 もなく、 「はい」 と渡されただけだった。 もうクリスマスケーキは頼みません、 というのである。
 ある一つの商品をめぐるトラブル、 あるいは苦情について、 その商品だけを購入しないということで、 組合員の思いは本当に解決されたのだろうか。 そのことが、 私にはとても疑問なのである。 組合員の苦情は、 組合員の生協への期待の表われである。 顧客が不満を持ち、 苦情を申し立てたとき、 解決に満足した人の再度購入率が一番高く、 しかも、 口コミは、 他のメディアよりも信頼度が高いという性格からも苦情処理に不満を抱いた顧客の非好意的な口コミの影響は、 満足した顧客の行為的な口コミの影響に比較して、 二倍も強く販売の足を引っ張ると報告されていることからも、 このような組合員の落胆が、 このままその商品を買わないことだけではおさまらないように思う(注1)。 それゆえ、 トラブルや苦情の処理の仕方は充分注意されなければならない。 以後、 その商品が再度購入されているかを把握することも大切である。
 また、 別の事例では、 産直のレタスがズルズルになって、 その日にすでに食べられなかったので、 そのことを担当者に言うと、 その月の請求分から引かれていたので、 きっちりしてるなと思ったというのである。 しかも、 トマトでも同じようなことがあったが、 やはり引かれていた、 と書かれている。 この事例で、 私が何よりも不思議に思うことは、 産直の野菜のこのような状態にもかかわらず、 この事例が 「嬉しかったこと」 の例として書かれていることである。 もちろん、 苦情処理のプロセス、 方法が適確であったからかも知れない。 しかし、 産直の野菜のこのような状態が繰り返されるそのことへの解決がなされる必要はないだろうか。 そして、 こういったトラブルの解決策や説明が、 積極的に組合員になされるというコミュニケーションが大切であるように思われる。 組合員からの苦情や要望を受ける重要な窓口としてだけでなく、 積極的に要望を尋ね知り、 解決していくコミュニケーション活動がなされることが期待されるのである。

4. 労働としてのコミュニケーション
 このようにコミュニケーションにおける留意点について考えていくと、 コミュニケーションは配達担当者にとって、 実に大変な仕事なのである。
 プロフェッショナルとして、 コミュニケーションを仕事の1つと考えることは大切である。 そして、 プロとしてさまざまな苦情やトラブルに対処するとき、 コミュニケーションの障害となるのは、 意志でコントロールが不可能と思われている怒りや嫌悪といった不快な感情である。 これらをどのようにコントロールし、 いかなる感情を作っていくかである。
 フライト・アテンダントについて少し述べると、 フライト・アテンダント訓練時に、 単に表面的に優しくするのではなく、 乗客に 「心から」 優しくなるためのテクニックを学ぶといわれる。 ホックシールドは、 これを 「感情労働」 と呼んでいる(注2)。 不愉快な乗客に対しての感情管理 (マネージ) の方法を、 マニュアルやトレーニングでたたきこまれるのである。 しかし、 不快な感情をコントロールする方法として単にそれを抑え込んでは自分の感情がアイデンティティと乖離し、 労働疎外を招くことになる。 それを避けるため、 心から感情規則が指し示す 「乗客の前ではニコニコするべき」 という感情を抱くように努力することが要請される。 よって、 フライト・アテンダントが感情規則にしたがうのは、 企業の論理によって課され、 しかも、 単に査定に響くといった功利的な動機にのみよるのではなく、 「フライト・アテンダントは、 優しい」 といった期待やイデオロギーによって強化されたアイデンティティに支えられているからである。 これは、 看護婦 (士) などの労働にも同じようなことがいえるだろう。 現代における感情労働者の数は増加傾向にあり、 職業全体において感情労働の重要性が高まっているといわれている。

 共同購入における豊かなコミュニケーションへの模索は簡単ではない。 それは、 感情をコントロールし、 生協への期待に支えられた感情を形成できれば、 コミュニケーションが豊かになるというほど単純ではないことを、 私たちは体験的に知っている。 だからこそ、 コミュニケーションは仕事なのだということを幾度となく繰り返し意識し、 生協の顔としての配達担当者は、 組合員の生協への期待をいつも確認し、 こたえていくことが求められるのである。 しかも、 それは、 らせんのように繰り返されながらも質を高めながら。

(注1) 福井 有 『コミュニケーションの文化と技術』 (1994 エピック) のなかでアメリカ政府消費者問題局が全米の消費者苦情処理に関する調査依頼に対して報告された内容として、 紹介されている。
(注2) Hochschild, A. R. 1983 The managed Heart: Commercialization of Human Feeling. University of California Press.  「感情労働」 (emotion labor) とは、 資本主義労働市場で、 営利目的で感情ワーク (ある感情を心から感じるように努力すること) が行われることをいう。
やまもと けいこ
神戸女子大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。 佛教大学、 龍谷大学講師専門:コミュニケーション論、 教育社会学主な共著書; 『21世紀を展望する教育』 (南澤貞美編著、 晃洋書房、 1994年)
論文:「沈黙の機能と評価-教育現場のポーズとサイレンスを中心に-」 ( 『関西教育学会紀要』 第18号、 1994年)、 「医療現場におけるコミュニケーション・ギャップの要因」 (共著 『神戸女子大学紀要』 27巻、 1994年) など。



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