1998年10月号
コロキウム(論文)

共感、 学習、 協働の再生のために

若林 靖永  京都大学大学院助教授


1. 三極ネットワーク組織再論
昨年、 くらしと協同の研究所は阪神・淡路大震災でのコープこうべの創造的復興の取り組みについての調査結果をまとめ、 コープ出版から 『生協 再生への挑戦』 を出版した。 本書は、 コープこうべのこの実践が、 単に大地震という未曾有の悲劇にともなう、 特殊で異常な経験とみるのではなく、 今日、 生協陣営が直面する 「危機」 にたいする真正面からの回答であるとみて、 その経験から普遍的な教訓を探ろうとした。
私も、 生協にいま求められていることは、 事業政策の見直しとか組合員の参加の場の設定などというレベルにとどまらず、 それを生み出し遂行する生協の組織のあり方そのものが問われているという問題意識から、 本書に 「協同組織デザインの再構築――三層モデルから三極モデルへ――」 という一文をよせた。
そこで提案したアイディアが次の図1・図2である。 (同上書、 111ページ=右上図)
チェーンストアの組織論を単純化したのが図1である。 この組織モデルの特徴は、 本部がマーチャンダイジング (商品管理) などを担当し、 中央集権的に意思決定をおこない、 現場はオペレーション (店舗運営) のみを担当するというように、 分業を徹底している点にある。 何を仕入れるか、 いくらで販売するかは本部 (商品部) が決定し、 店舗は本部の決定やマニュアルにしたがい、 ただそれを並べて販売することだけなので、 人体にたとえれば、 本部が頭で店舗は手足というようにもいわれている。
もちろん、 これはかなり単純化した議論である。 実際にうまく機能しているチェーンストアでは、 本部の決定やマニュアルにしたがいつつ、 現場からの発信や工夫をすすめ、 命令にしたがうのみのロボットにはなっていない。 だが、 これは例外的である。
この三層ヒエラルキー組織にたいして、 対案として提案したのが、 三極ネットワーク組織 (図2) である。 これはどうもわかりにくいようである。 たしかに変な図であるが、 要点だけ紹介しよう。
現場は末梢ではなく中心である。 部分ではなく全体である。 現場が生き生きと問題解決に動くのは、 まず、 こころ (ハート) が動くときであり、 そのとき、 そこで情報が創造される。
現場の主体性をひき出すためには、 本部、 ミドル・マネジメントが変わらなければならない。 本部は現場が求めていることに応えるようなサポートをおこなうことが第1の役割となる。 そのサポートは、 ゆき過ぎて過保護にならないように留意する必要がある。 さらに、 現場が問題を解決することをサポートするために、 現場を支援するシステムを構築する必要がある。 システム構築によって、 一現場だけでは解決できない問題の解決が可能になる。 このシステムも、 現場をコントロールし、 スポイルするようなものであってはならない。
現場主導を推進し、 現場主導における方向性を指し示すこと、 それがトップの役割である。 トップは自らの一挙一動が現場における判断や行動の指針になるようなシンボルにならなくてはならない。 トップは、 ビジョン (理念) を示し、 組織全体に共有させ、 集中的に取り組むべき戦略的領域の定義をおこない、 組織をリードするのである。

2. 共感こそ出発点
このように、 三極ネットワーク組織論はなによりもまず、 現場、 とりわけ、 組合員、 そして組合員との直接の接点にある生協職員、 生協事業所が生き生きすることを強調している。
では 「生き生き」 現場構築の課題は何だろうか。
その第1のポイントが 「共感」 である。
現場が生き生きするには、 現場を構成している人たちが互いにこころを豊かに通いあわせることが求められる。 教育の現場でも、 大講義では受講する学生同士や教師と学生との間に緊密なこころの通いあいをつくり出すことは困難なため、 集中力に欠け、 私語もなかなか抑制できない。 少人数のゼミナールですら、 広々とした講義室などでおこなうと、 互いの心理的距離が遠くなるのか、 授業は散漫になりがちである。 ところが狭い和室で車座になって座ったりすると、 お互いのことが意識され、 積極的に関与しようという気持が生まれやすい。
また、 互いに自分の意見だけをおしつけようというような関係や、 自分に直接関わってこないかぎり無関心であるようなのも、 「生き生き」 現場を妨げてしまう。 社会関係をとり結ぶこころの能力、 スキルが充分に育っていないのである。
『0歳から思春期までのEQ教育』 (ジョン・ゴットマン著、 戸田律子訳、 講談社、 1998年) によれば、 こころを育てるためには 「こころのコーチ」 が必要だという。 子どもたちは、 衝動を抑制する力、 目標のためには目先の欲求に屈しない自制心、 自分を動機づける力、 他人の発するシグナルを見逃さない感受性、 人生の浮き沈みに対処できる能力、 といった情動面のほとんどを親から学習する。 子どもの感情が高ぶったとき、 たとえば、 お菓子が食べたいと駄々をこねたとき、 親が子どもの感情を無視したり、 否定、 非難したり、 あるいは 「そうだね」 とのみ放任してしまったりするのでは、 子どものこころは何も学ばない。 それどころか、 いよいよ子どもは自分のこころをもてあますようになっていく。
「こころのコーチ」 である親は、 そういうとき、 (1) 子どものこころに気づく、 (2) 感情の揺れるときを、 子どもに近づき教育するチャンスだととらえる、 (3) ともに響くこころをもって子どもの話を聞き、 子どもの抱いている感情を妥当だと認める、 (4) 子どもがいま味わっている感情の特徴をとらえ、 それを言葉におき換えてあげる、 (5) 直面している問題の解決策をともに考えながら、 限界を設定し、 節度を守らせる、 という5つのステップで、 子どもの感情を真正面から受けとめ、 かつ、 子ども自身が自分の感情にふりまわされるところから脱し、 自ら受けとめて、 そこから解決策などに目を向けるようにするのである。 こうして自己コントロールと社会的交流のためのスキルが育っていく。 このような 「こころのコーチ」 の土台、 それが共感である。
さらに、 他人の、 自分の、 こころのメッセージに耳を傾け大事にできることが共感を深めていくことにつながると思う。 たとえば、 カウンセリング理論の1つに 「フォーカシング」 がある ( 『心のメッセージを聴く』 池見陽、 講談社現代新書、 1995年。 『フォーカシングの理論と実際』 村山正治ほか著、 福村出版、 1984年を参照)。 人の個人的な成長体験や自己発見につながるような 「話の聴き方」 は、 専門家によるカウンセリングそのものではなく、 一般の人たちのおこなう相談とか、 ともに 「実感」 を分かちあい、 そこから創造的な閃きを得るためのスキルにもなるものである。 そのような 「話の聴き方」 を 「体験的傾聴」 と呼んでいる。
「フォーカシング」 を統合した 「体験的傾聴」 の特徴は、 (1) 話し手の体験の流れに水をささず、 ぴったりとついていく、 (2) 聞き手が感じた気持を問いかけの形で述べて、 話し手にさらに感じ、 考えさせる、 (3) 体験における外界の出来事だけを語るのではなく、 自らの体験している感じ、 実感、 つまり 「フェルトセンス」 をみつめ、 それはどういうものか探索し、 見出しをつけ、 さらに深く洞察するなかで突然、 いままで気づいていなかったことに気づく (フェルトシフト) ようになる、 といった点にある。 最後のフェルトセンスに着目するのがジェンドリンの開発した 「フォーカシング」 法の独自性といってよい。
このアプローチは、 客観的なかたちで問題をとらえ、 問題解決をはかろうとするものや、 なにか別の権威とか第三者からの解釈や評論によって介入されて問題をとらえようとすることとは対極的であり、 その人のこころのなかの感じ、 身体的に感じられるものに光をあてることで、 こころの 「問題」 に向かうものである。 たとえば、 生協職員が組合員の話を聞く際、 その話を額面通り聞くだけでなく、 どうしてこの人はこういうことを話すのだろうということに関心を寄せ、 「フェルトセンス」 を聴くように努めたら、 その生協職員もまた変わるのではないだろうか。

3. ともに学びつづける関係づくり
「生き生き」 現場の第2のポイントが 「学習」 である。
教育現場での悩み、 それは学ぶことが楽しみ、 喜びになっていないという現実である。 受験勉強を経て大学に入学しても、 学びたいものがあるわけではない学生が多い。 したがって、 学生はその分野を学びたい、 マスターしようという学習意欲は乏しく、 その授業が単位をとりやすいかどうかに第1の関心があり、 より積極的な場合でも、 おもしろいかどうかがもうひとつの関心事である。 学びたいと思わないものに学びたくないことを無理やり勉強させよう、 教えようとするのはほんとうに正しいことなのだろうか。 ほんとうに可能なことなのだろうか。
「ヒーリー学級」 ( 『「学ぶ」 ということの意味』 佐伯胖、 岩波書店、 1995年、 22~45ページを参照) というユニークな授業実践がある。 ヒーリー先生の担当するのは高校の幾何の授業なのだが、 教科書はない。 「平行線はけっして交わらない」 というような探求シートを生徒に渡し、 それに自分の考察を書きこみ、 クラスで討論をし、 「クラスの定義」 ができたところで、 「クラスの教科書」 に載せる。 それがまちがっているかどうかということについて、 ヒーリー先生は何も言わない。 だからまちがっていても 「教科書」 に載ってしまうし、 ときどき実施される試験問題もその 「教科書」 にしたがって出されるのである。
このように徹底して 「教えない授業」 を通じて、 子どもたちは大きく成長した。 その成長の内容は、 (1) 社会的共同体のなかでの自分独自の役割の創出、 (2) 自分のため・共同体のための学び (自分が知りたいから調べ、 クラスのみんなのために調べる)、 (3) 個人的納得の公共化 (自らがとことん納得しようとし、 そして他の人にわかってもらうように説明しようとする)、 (4) 「作品づくり」 を通じた学びの歴史化・文化化 (学びの過程での一人ひとりの名前のついた貢献がクラスの共有財産であり、 歴史であり、 文化である)。 以上の4点にまとめられる。
こんな授業を成功させるのはむずかしいし、 これが唯一の授業方法というわけでもない。 生徒の目からは、 ヒーリー先生は無能な先生、 幾何学のわからない先生、 教える意欲のない先生、 整理のできない先生などというようにみられている。 ヒーリー先生の役割は隠れている。 この実践はつまるところ、 学びがいが生まれることで自ら学ぶようになる、 学びがいは自分と他者との関係のなかで生まれ、 人は他者とともにつねに学ぶものであるということを教えてくれる。
このような学習者共同体の形成こそが学びの場づくりだという実践が、 コンピュータ利用教育のなかですすめられつつある。 これらの授業実践には、 コンピュータを利用するからといって従来通りの教育のままではだめだ、 コンピュータを活用して新しい教育を創造しようというところに共通の問題関心がある。
CIEC (コンピュータ利用教育協議会) と全国大学生活協同組合連合会の共催で開催された1997年PCカンファレンス (於:同志社大学) のシンポジウムでは、 なんらかの動機づけ (エサ) をあたえれば学習するというような行動主義心理学の呪縛を断ち切って、 新しい認知科学の知見をふまえたコンピュータ教育のあり方を探った ( 『教育におけるコンピュータ利用の新しい方向』 CIEC発行、 1998年を参照。 CIECの連絡先:電話03-5307-1195 e-mail: ciec-jim@ciec.or.jp)。
さらに、 今年のPCカンファレンス (於:日本福祉大学) の分科会では、 多くの学習者共同体型の授業実践が報告された。 たとえば、 富山大学の筒井洋一先生は、 インターネットを活用して学部学生の授業として、 ドイツの大学の学生と国際共同セミナーを3年間続けている。 獨協大学の立田ルミ先生は、 インターネットを活用して、 アメリカの大学で日本語・日本社会を学んでいる学生と日本の大学が協働して、 日米文化理解のためのデータベース作成をすすめている。 富山大学の院生の浦崎久美子さんは、 ホームページからアクセスできる、 グループによる作文学習を作文データベース (作文の閲覧・登録・検索、 コメントの閲覧・登録) を活用した作文教育をおこなった。 また、 中京大学の三宅なほみ先生のところの学生の益川弘如さんは、 グループ学習の際の記録を 「自分のノート」、 「みんなのノート」 というようにコンピュータネットワーク上にまとめていく協調学習支援システム 「ReCoNote」 を構築した。
とりわけ、 昨年にひき続いて報告された産能大学の妹尾堅一郎先生の 「社会調査法」 が注目をひいた。 社会的意味の探索の修得は、 実際にグループワークによるプロジェクトで実践することなしにはむずかしい。 しかし、 従来型の 「課題によるレポート提出」 では、 プロセス上での指導がないために、 方法論の修得がやはり困難である。 そこで、 プロジェクトごとに自分たちのホームページを立ち上げ、 企画から、 活動の記録、 調査結果などを順次公開していくようにした。 プロセスが見えるようになり、 教員・学生チューターが電子メールを活用して相談にのり、 プロジェクトのプロセスにおける気づきを奨励し、 活動日誌を通じてプロセス自体に注目させ、 プロジェクトマネジメント自体を学ぶきっかけとした。 さらに社会人サポーターとして、 民間企業の方にお願いして、 大学外からのアドバイスをいただいた。 大学外の異文化からの評価や叱咤激励は、 学生にとって学びがいの形成につながるとともに、 学びの幅を広げる機会ともなった。
この授業を通じて、 学生たちは自ら興味をもって学習をすすめ、 意味探索の方法論を学ぶとともに、 グループによる協働のノウハウをオフメディア (直接の対人コミュニケーション) およびオンメディア (インターネット) を通じて学んでいった ( 『CIEC会誌 コンピュータ&エデュケーション』 Vol.4、 柏書房、 1998年を参照)。
学びがいは喜びであり、 生きがいにつながり、 ともに学びあうことは問題を解決し、 現実を変革していくだろう。 ともに学び続ける場が、 生協の現場で生協職員と組合員の直接の接点の場で生き生きと生まれているのだろうか。


わかばやし やすなが
1961年生。 京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。 現在、 京都大学大学院経済学研究科助教授。 くらしと協同の研究所研究委員会幹事。
専門:マーケティング、 流通
主な共著書: 『日米の流通イノベーション』 (近藤文男、 中野安編著、 中央経済社、 1997年)




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