『協う』2007年2月号 視角
政界をも揺るがすイギリスの学校給食騒動
中村 久司
英国・ヨーク・セント・ジョン大学
日本プロジェクト担当官 (平和学博士)
「教育・教育・教育」 を新労働党のスローガンとし、 教育改善を主要政策の一つに掲げてきたブレア英首相の評価を大きく揺るがすような騒動が、 学校給食の現場で起きている。
事の始まりは、 「裸のシェフ」 の愛称で国民的人気を博しているジェイミー・オリバーが、 2005年春、 グリーニッジ地方自治区の給食の質的改善を目的として調理場へ乗り込み、 学校給食の実態を詳細に暴露し、 改善に向けて苦闘する姿を報道した、 民放TVドキュメンタリーである。 この番組が教職員や保護者を越えて、 メディア・一般社会・政界の広範な関心を呼び、 ブレア首相は緊急の政治課題として対処することを余儀なくされた。 オリバーが4週間で集めた27万人の署名を持って首相官邸を訪れたのを受け、 首相は、 給食の新基準を設定し、 向こう3年間に渡り約560億円を給食改善費として予算化することを確約したのである。
児童・生徒は何を食べていたのか。 一言で言えば 「ジャンク・フード」 であり、 栄養のバランスなど無視した上に、 健康に悪い加工食品中心であった。 具体的には、 ソーセージロール、 ポークパイ、 ドーナッツ、 冷凍ピザ、 ビスケット、 サンドイッチ、 クリスプス (ジャガイモの薄切りを油で揚げた間食用のもの。 日本でいうポテトチップス)、 チョコレート、 炭酸飲料などで、 これらに加えて、 肥満の大きな原因のひとつといわれる、 チップス (ジャガイモを1センチ角程度の棒状に切って揚げたもの。 日本でいうフライドポテト) が主食的地位を占めていた。 新労働党のスローガンとは裏腹に、 「チップス・チップス・チップス」 であった。 また、 野菜・果物が皆無に近く、 鉄分・カルシウムなどがひどく不足していた。
給食の質の悪さは、 給食予算からも十分推測できる。 地域差は当然あるものの、 オリバーは、 民間業者への委託予算である一人当たり一食37ペンス (約74円) の枠内でメニューの改善に苦闘した。 この金額の英国における購買力は、 有名メーカーの猫の餌 (400g缶) 55ペンス、 生協の犬の餌 (同缶) 45ペンスなどの値段から、 読者にご想像いただけるであろう。
英国の給食改善は進行しているだろうか。 政府は、 約560億円の特別予算をつけ、 新たな給食基準を設定したものの、 改善が目に見えて定着するには、 まだまだ年月がかかるものと思われる。 560億円にしても、 これがすべて食材に充てられるのではない。 ある試算によれば、 現在使用されている調理場などの給食関連施設改善に580億円、 そのような施設がない学校に新たに基本的なキッチンを設けるのには700億円が必要だといわれる。 また、 栄養学に関する基礎知識を持つ給食調理人は、 わずか25%しか存在しない。 残りの調理人の職業訓練にもかなりの予算が必要となるであろう。
学校における炭酸飲料・キャンディー・チョコレート・クリスプスの販売禁止や、 毎食ごとに果物と野菜を必ず出すなどの新方針が抵抗無く受け入れられ、 わずか1年で顕著な改善が見られた事例も報道されている。 反面、 口に合わない給食を拒否し、 近くのお店でファーストフードを求める者もどんどん増えている。 親の理解もまだまだ不十分で、 極端な例ではあるが、 ヨークシャー州の母親グループは、 給食拒否者の身代わりとなって午前中の休み時間に学校の垣根越しに生徒の注文を取り、 ファーストフードを買い集めて昼食時に生徒に手渡している。 さらには、 新基準では儲からないのを理由に、 給食供給を取りやめる民間業者も出始めている。
英国の給食騒動は、 「教育・給食」 を超えて多くを物語るが、 二つの点に言及したい。 まず、 食文化の持つ深遠かつ強固な影響力である。 現状は、 本質的には、 1860年代から長時間労働を余儀なくされた工場労働者向けに急激に広まった 「チップショップ」 (ジャガイモの店) の現代・学校版であり、 ファーストフードに見出される現代社会の価値観、 家庭の食生活の反映である。 次に、 騒動は、 社会には 「民営化」 が必ずしも適さない分野があるという極めて基本的な点を、 メディアを通して広範な国民の眼前で立証した。 サッチャー政権の1980年代から顕著になった、 分別のない 「民営化・競争原理」 の教育現場・公共サービスへの導入が、 新労働党でも見直しされることなく堅持され、 その弊害が誰の目にも明らかになってきたのである。
(なかむら ひさし)