『協う』2006年10月号 くらし・人・地域・モノ


人が集まり、個性が集まる「場」からの創造
-都市のお寺 應典院からの発信-

文責:『協う』編集委員 廣瀬 佳代

 全国に7万以上あるといわれるお寺。お寺といえば葬儀、法要、お墓、死者と向き合うときにかかわるところと思われがちだ。そんななかで「應典院」は、日常的に人が集まる場を創造し、若い世代への発信を続けているという異質な存在である。人が集まり、個性が集まり、多様性が生まれる。そこにある双方向の関係性が、人が元気に生きるための力を生み出す。今回は、そんなことに取り組むお寺、應典院のとりくみとその“こころ”を秋田光彦住職にお聞きした。


大都市、大阪のど真中のお寺
 意外にも大阪はお寺の多い町である。愛知県(約4,500)についで2番目、約3,300ものお寺があり、應典院(おうてんいん)のある天王寺区下寺町(しもでらまち)には、たくさんの寺が並んでいる。江戸時代初期、市街地の整備再編のときに移転統合され、この地に集められとのことだった。
 浄土宗大蓮寺(だいれんじ)の塔頭(たっちゅう:寺院の敷地内にある小寺院)である應典院は、戦災で荒れたままになっていたが、2000年に創建450年をむかえる大蓮寺の記念事業として再建が計画され、1997年に落慶、再出発することになった。
 應典院の本堂は、最大140席まで収容可能な円形劇場型のつくりである。また定員40人ほどの研修室が2つ、1階にはギャラリーがある。ここでは演劇、映画、コンサートのほかに「若者仏教講座」や「いのちと出会う会」の集いなどが催され、年間3万人の人々が集っている。これらの企画は、「NPO應典院寺町倶楽部」に集うアーティストやNPOの市民団体などとの協働事業ですすめられており、そのキーパーソンが應典院の2代目主幹、山口洋典さんである。

寺のふたつのまなざし
 應典院は大都市の中で、新しいコミュニティを作り出している。その「場」が今、何をめざし、何を創造しようとしているのか? 住職の秋田光彦さんにお聞きした。次は秋田住職の言である。
 「なぜ、こういう寺をやっているのか、私には二つのまなざしがあります。一つは『公益(人間らしく生存していく共通の利益)の原点としての寺のあり様』であり、もう一つは『都市における場』という面での應典院の再生」です。近代の福祉国家がはじまる前は民が民のために自立して『公共サービス』を提供する環境があって、その少なくない部分をお寺が担っていました。そこには“学び(教育)”、“いやし(福祉)”や“楽しみ(芸術・文化)”といった3つの機能があったと思います。近代以降は、こうした場が『民』ではなく『官』のサービスに移ったことで公益のありようが揺らいでしまったのではないでしょうか。また、バブル期には都市のお寺は、『市場の論理』に翻弄されました。お寺の敷地が貨幣価値で計られ、経済的利益が出ない寺が都市に存在するのはもったいない、という考えも生まれ、格好の『地上げ』対象になりました。そんなことも含めて、今は『なぜ、そこに寺という場があるのか』という、お寺が大都市に存在する意味を社会に対して説明することが求められているように思います」。
 また寺としてのあり様については、「戦後は、日本人全体が『命』の問題、言い換えれば『公益』をあまり語らなくなった。特に、大人が公のことを語らなくなり『私益』追求に走り、全体の命の課題(例えば、世界の環境問題)などを語らなくなってしまった」と、お寺の新しい役割についても語っていただいた。

若い世代に発信を

 應典院の再建にあたってのコンセプトは、「若い世代に発信できるお寺の構想」である。そして、そのキーワードは「場」である。この10年の間にも、たくさんの「場」をつくられてきた。例えば「場」に着目して開催されているのが「コモンズフェスタ(お寺を舞台にしたNPOとアートの文化祭)」である。「この集いは、表現活動を通した社会的な問題提起と人材育成の場です」とこの集いの位置付けを語ってくれたのは、いつも様々な企画の中心にいる、山口洋典主幹である。今年開催する「コモンズフェスタ2006」のテーマは『場へのまなざし』。案内チラシには「(應典院に)年間3万人の人が来訪することによって、空間に表情が生まれる。場の成立である。逆に場が成立するのは、完成されたものが持ち込まれるだけでなく、その空間において、多くの人々の『総意・技』、すなわちアーツが再創造され、表現され、共有、共感されていくためであろう」と書かれている。
 秋田住職は「彼らの創るアートは確かに稚拙かもしれない。でも仕上がった作品が大事ではなくて、つくりあげるプロセスが大事なのです。そこには、すごいものがあります。それらは、誰からも指示を受けず、表現活動をやりたい、という思いから始まっているからです。みなが対等で、仲は良くても対立や葛藤のくり返しです。その場から『対話と協働』が生まれ、社会参加のレッスンの場ともなっています」と語られている。

現代のお寺の役割
 應典院には「檀家」がない。檀家制度は、徳川幕府によってキリスト教禁圧政策として取り入れられ、江戸時代の約200年間続き、明治政府のときに廃止されたにもかかわらず現在も続いているものである。だから應典院が、檀家をもたない、お葬式をしない、宗派を問わずに会員組織で支えあっていくという形態をとっているのは、新しいことのようであるが、実は昔のお寺のあり方に戻ったともいえる。
 では、檀家を持たない應典院は寺としてのどんな顔、役割をもっているのか。秋田住職は次のように語っている。
 「應典院はお寺ですから、そこには当然、宗教があります。日本人の日常には、直接に宗教を実感するようなことが少なく、『宗教ぎらい』になっている人さえいます。しかし、宗教が身近にあることを実感できなくても、たとえば『もののけ姫』などの宮崎アニメが多くの支持を得ているのは、ものがたりのなかにある霊性、みえないものとの関係性を求める心が多くの人のなかにあるからです。マスコミで占いや霊的なものを取り上げる風潮もありますが、『答え』を一方的に与えられることからは、創造性は生まれないでしょう」また、「若者のカルト教団への傾倒は、既存の宗教が若者に何も語りかけなかったからではないのか」とも。
 みえないものと関係性をもつには、感じる心や想像する力が必要だ。宮崎アニメに対する人々の共感は、虚構(「となりのトトロ」は現実には存在しえない)により、みえないものと関係しようとしている表れではないか。また、今の社会のなかで、癒しや生き方の「答え」を求める若者はたくさんいて、たとえカルト教団であっても、そこに求めるものがあれば、惹かれてしまっても不思議ではないという現実がある。秋田住職の話からは、すぐに「答え」を求めるのではなく、自分で見つけ出していく、その過程にこそ意味があり、人に備わっている霊性、特に現代の若者の精神的渇望にも応えようという「現代のお寺」の役割が語られたように思う。
 このような筆者の思いに、「若い人に必要なことは、教えより関係性、教祖でなく対話者、共生する人です。そして、共に生きるためには共通軸が必要で、それは『あれが欲しいこれほしい』という消費の共通軸でなく、私流に言えば『命』であり、『公益』という大きな共通軸です」との答えが返ってきた。

「場」と地域づくり
 應典院がつくり出す「場」には、寺周辺の人たちだけでなく、全国からさまざまな年齢、職業の人々が集っている。そこでは、人々の多様性が互いに刺激、影響しあって、双方向の関係性が生まれている。「わたしがかわる、あなたがかわる」、そのような目にみえない「かかわりあい」の連鎖がやがて「公益」を自然と語れる人をつくりだし、應典院の「場」にかかわった一人ひとりが、今度は別の領域・地域で新たなコミュニティをつくり出すことになるかもしれない。
 現代の大都市は、匿名であっても、孤立していても生活することが可能だ。應典院には、そんな大都市にこそ求められるコミュニティの姿、新しいお寺の役割や機能があったように感じた。これからも進化しつづけていく「お寺」の姿を見ていきたい。


〈應典院の主な取組み〉
活動名称:内容概要
寺子屋トーク:出会いと気づきを学ぶ交流の場(取材時で44回目)
いのちと出会う会:生きること、老いることetc.じっくり仲間と語り合う場
コモンズフェスタ2006(10/1~31毎日実施):表現活動を通して社会的な問題提起と人材育成の場。詳しくは、→http://www.outenin.com/commons2006/
サイエンスカフェ:専門知と市民知が交わる語らいの場
コミュニティシネマシリーズ:映画文化の市民レベルの発展のための場