『協う』2006年4月号 投稿
生活福祉と生活協同組合福祉 福祉NPOの可能性
金城学院大学 朝倉 美江
この投稿は、『協う』vol.78(2003年8月)の「書評特集3 福祉論」でとりあげた4冊(千田明美『ほほえみに支えられて』コープ出版、田渕直子『ボランタリズムと農協』日本経済評論社、朝倉美江『生活福祉と生活協同組合福祉』同時代社、京極高宣『生協福祉の挑戦』コープ出版)の書評について、著者のお一人の朝倉さんから『協う』発行人宛に届けられたものです。「書評特集」全体は、研究所のホームページで見ることができます。
なお、『協う』の紙面は限られており、隔月刊ということもありますので、今後の議論は研究会などの場を通じて展開されることを希望します。(編集部)
はじめに、本書を『協う』vol.78の書評特集で、取り上げていただいたことに関して深く感謝申し上げる。ただその書評の内容については拙著の真意が反映されているとは思えないので、私の考えを述べさせていただきたいと思っている。
本書は、社会福祉の市場化が進展するなかで非営利組織である生活協同組合(以下生協)による福祉の位置と役割を明らかにし、新たな共同性を市民の主体性によって構築する方法として生活福祉の理論化を試みたものである。
拙著に対する上掛利博氏の書評は以下のとおりである。
「生協と福祉を正面からあつかった、朝倉美江『生活福祉と生活協同組合福祉』(同時代社、2002年)は、上記2冊に比べて私には少し読みにくかった。例えば、生活福祉の概念を、『公的領域(=政府)、市場のいずれとも異なり、生活者=市民の生活の共同関係の中に主体的・自発的に生み出された生活問題解決の方策を総称する』と規定するところなど。その理由は、学位論文を母体としているからというよりも、『福祉』理解の違いにあるように思えた。ちなみに、『支え、支えられる関係』について朝倉さんは、『支える』ということは『支えられる』側があってこそ成り立つ概念であり、生活問題を解決する主体が『支えられる』側にあることを示していると述べ、結局のところ『対等な関係』の持つ意味を見失っているように思える。また、『生協が、福祉サービス・生活福祉サービスを創造し、その提供主体となることによって福祉社会を形成する可能性があり、現実にも福祉社会を実体化しつつあるといえる』としているが、政府や市場ではない生協が福祉を提供するならば福祉社会になるというのも一面的ではないだろうか」
限られた字数で、255ページの拙著を評価されるのは、とても難しいことだと思われる。しかし、私の生活福祉の概念を読みにくい根拠として挙げられ、さらにそれは「福祉」理解の違いによると断定されている。これは上掛氏の「福祉」理解がどのようなもので、それは私の「福祉」理解とはどのように異なるのかを明確にしていただかないと反論のしようもない。さらに生活福祉の概念は先行研究に学びながら理論化を行ったものであり、それを批判するならば明確な根拠を示したうえで行っていただきたい。
次に「対等な関係」のもつ意味を見失っているという指摘について私の考えを提示したい。私は対等な関係が、福祉活動・事業の援助者・被援助者との関係において、そもそも成り立ちうるのかという論点を提起したい。対等ということは目指すべき目標であり、理念であると思うが、われわれは他者の立場をどの程度理解し、共感できるのかということを深く考察すれば、それが図式的に成立するとは到底考えられないのではないだろうか。本書において、私は、「対等な関係」を実体化しようとした試みとして、生協のくらしの助け合い活動を位置づけ、その活動のなかで、活動会員(支える側)と利用会員(支えられる側)の活動実態の事例調査を実施している(pp.75-104)。
「支えあう」という活動には、「支える側」と「支えられる側」が存在し、さらに「支える」ということは「支えられる」側があってこそ成り立つ行為である。くらしの助け合い活動の現場では、「支える」ということが、実は「支えられている」という実感をもつということは多くの会員の声(助け合い活動で助けていると思っていた私自身が実は助けられていたという声等)から従来明らかにされてきているし、本書のなかでもそのような声は紹介している。しかしそのことをもって支える側と支えられる側は対等だといえるのだろうか。ある時は支え、またある時は支えられるという互酬的な関係が理想的ではあるが、現実にはその関係は固定化しがちであり、くらしの助け合い活動もその例外ではない。
調査の一部を紹介させていただくと、「実際はそんなに甘くなかった。ホームヘルパーさんはいつも決まったときに来てくれて安心できるが、本当に来て欲しい時、一番困った時には来てもらえない」、「利用者が本当にしてほしいことをやってもらいたい。たとえばちょっとしたことだけれど、高いところのものをとったり、重いものをもったりが大変。今朝も主人が倒れ、起こして寝室まで連れていくことができなかった。同じマンションの人に声をかけて助けてもらったが、そういう時に来て欲しい。また植木の世話までやることができない。でも世話ができずにせっかく育ててきた花や木が枯れてしまうのは悲しい。こういうことがくらしではないのか」、「この会は自分が必要になったとき、優先的にしてもらえるっていうので登録もしてきたのに、それを実行している人はまだあまりいないんです」、以上のような事例を詳細に分析しながら本書では「支え、支えられる」関係と新しい共同性について第3章で論じている。そこでは「支え、支えられる」関係の形成には3段階のプロセスがあることを試論的に提示している。
具体的には、購買生協として商品購入に関心を持ち、加入する組合員が、班活動などを通して仲間としての関係が生まれる。⇒「支え、支えられる」関係の基盤の形成がされる。【第一段階】、次に「くらしの助け合い活動」での家事援助を通して、共感が深まり、相手の生活問題・困難、「弱さ」への想像力も豊かになり、そのことが問題を他人事ではなく、自分のこととして受け止めることにつながる。⇒「支え、支えられる」関係の形成【第2段階】、さらに実際に生協の福祉サービスの利用、くらしの助け合い活動で支えられた経験を含め、より当事者への理解が深まることによって、当事者にしか理解し難い困難・悩みを共有することができ、共感の深まりと広がりが形成される。⇒「支え、支えられる」関係の深化・拡大【第3段階】
以上のような「支え、支えられる」関係のプロセスは一般化できるのか、という点については本書の課題であると述べているようにさらに実証研究等を深める必要があることは認識している。しかし、このような論述が「対等な関係」を見失っているという評価につながる根拠を明示していただきたいと考えている。
最後に「『生協が、福祉サービス、生活福祉サービスを創造し、その提供主体となることによって福祉社会を形成する可能性があり、現実にも福祉社会を実体化しつつあるといえる』としているが、政府や市場ではない生協が福祉を提供するならば福祉社会になるというのも一面的ではないだろうか」と指摘された部分は、第2章 生活福祉と福祉サービスで述べている一部(p62)である。そこではペストフの「生協を含む非営利・協同セクターを福祉社会の形成主体として明確に位置づけることによって、政府と市場とで形成される社会から市民による参加型社会である福祉社会を展望し」、「市民が、必要なサービスを生み出し、それを運営し、さらにそのサービスを監査するというしくみを内在化しているところに生協福祉の独自性と価値がある」という論述を引用し、それを論拠に生協と福祉社会との理論的な関係とその可能性を私の言葉で論じている部分である。したがって、「政府や市場ではない生協が-略-」などという意味では全く述べておらず、正確に読み取っていただいているとは思えない。さらにこの論点については本書の終章「社会福祉システムの再編成-生協福祉等福祉NPOを基軸とした福祉サービス提供システムへの転換」において「共同(互酬)性を社会福祉システムを貫く原理として明確に位置づけ」、「生協福祉を核とした福祉NPOを多元化しつつある福祉サービス提供主体の軸とし」、「共同・協同原理を内在化するサービス提供主体の存在感が増していくことが、利用者主体の福祉サービス提供システムへの転換をはかり、新たな社会福祉システムの形成を実体化すると考えられる」と述べ、詳細に論じている。
拙著で私は生協福祉とは何かを論じている。その内容を詳述する紙数は与えられていないが、生協福祉の理論化はまだ緒に着いたばかりである。社会福祉の市場化が急速に展開するなかで、生協を含む協同組合福祉の役割はますます重要であると認識している。是非前向きで発展的な議論が展開されることを願ってやまない。