『協う』2005年12月号 コロキウム
グローバリゼーションと 時代の対抗軸
松山大学経済学部教授
岩林 彪
はじめに
グローバリゼーションは有益であり、社会的にも経済的にも恵みと繁栄をもたらし、人間の顔をしていると考える人々もいれば、それは社会と環境に災禍をもたらす怪物、妖怪であり、人間の顔をしていないと考える人々もいる。両者の間に存在する亀裂は、きわめて厳しい現実的な対立、抗争を地球規模で生み出している。以下では、グローバリゼーションを時代の対抗軸とのかかわりに限定して論じてみたい。
ここに、アメリカのウォルマートに関する一つの叙述がある。
「競争上の優位の源が革新と技術改善であり、それが大規模な産業のリストラにいたることは、一般によく理解されている。ビジネス・スクールで教材に使われる古典的な例として、アメリカにおけるウォルマートのケースがある。アメリカのほとんどすべての州でこのパターンが見られた。健康・美容関係商品、家庭用洗剤やパッケージ商品を売っている小規模で独立した家庭経営の商店はかつて、比較的に安定した業種だったが、これらすべての商品を低価格で供給する業者の参入により、ものの数カ月で(場合によっては数週間で)姿を消したのである。
零細産業を全国規模のものに変え・・・その過程で何千という小規模業者を廃業に追いやった・・・このような微妙な形での競争は、国際資本主義によって可能となるきわめて重要な分野であり、諸産業を劇的に変容させる可能性を持っている。」
これは、ローエル・ブライアン、ダイアナ・ファレル『市場の時代』からの引用であるが、ウォルマートの行動とその結果(小規模経営の破綻、大規模な産業のリストラ)を肯定的に捉えている。もちろん、これとは反対に、デビット・コーテン(『ポスト大企業の世界』)のように、「アメリカ中の小さな町を犠牲にして驚異的な成功を収めた」ウォルマートの実態を紹介したビル・クインに依拠して、同じ事象を批判的に捉える人もいる。
地域社会に密着して営業する数多くの小規模業者を容赦なく破滅させ、地域社会を破壊するグローバル企業のあり方を、人はなぜ肯定的に捉えることができるのか。まさにここにグローバリゼーションがかかわってくる。ブライアンとファレルは、次の一節においてそのグローバリゼーション観を明確に示している。すなわち、「資本移動の全面自由化は、グローバルな資本主義の流れを解き放ち、その結果、世界中の市民に繁栄をもたらす力を持っている。しかし、もし世界各国の政府が政策を誤れば、金融不安、ひいては世界経済の荒廃を呼ぶ引金ともなりかねない。資本移動が完全に自由化されることによって、世界中の貯蓄が非効率的に投資されたり、政府によって社会保障のような義務的経費に使われてしまわずに、最も生産的に投資されるようになるので、経済に繁栄がもたらされる可能性が高い」と。
私は、グローバリゼーションの本質が地球規模で展開する資本主義、資本の運動の態様にあると考えている。実は、ブライアンとファレルは、幾多の論者の中でもひときわ明瞭にこの観点に立っている。私と彼らとの違いは、グローバリゼーションをどのような時代文脈において捉えるか、その捉え方、まさに時代の対抗軸の理解の仕方、にある。ともあれ、グローバリゼーションの論理を検証するに当たって、彼らの議論は多いに参照されてよい。そうする前に、その論理が成立する背景を簡単に整理しておこう。
グローバリゼーションの背景
グローバリゼーションとは、効率的な資源配分を地球規模で実現するための完全に統合されたグローバルな資本市場の実現であるとするならば、このような市場の形成は、資本取引に対するいっさいの障壁が全世界的規模で取り除かれていることを必須の要件とする。そして、グローバルな資本取引に対する主要な障壁は、外部からの市場撹乱要因の侵入を阻止するために自国市場を保護しようとする国家、各国政府の存在であろう。
財、サービスの国際取引の自由化は、為替相場の安定と関税障壁の撤廃を目指したIMF=GATT体制(ブレトン・ウッズ制度)の下で、各国政府の貿易自由化政策と国家間の関税引き下げ協定により急速に進んだ。しかし、資本取引の自由化に関しては、この体制の下では基本的に大きな進展は見られなかった。なぜなら、IMFは為替相場の安定(対ドル固定相場の維持)のために各国に通貨価値の厳格な管理を求めたので、各国政府は財政赤字と貿易赤字を最小限に抑える財政金融政策、通商政策を実施し、その結果各国金融市場は当該政府の統制下に置かれることになったからである。つまり、相対的に自立した各国金融市場は国際資本取引の自由化圧力に対する障壁として機能することとなり、また自国資本の発達と必要に応じて資本自由化措置を受け容れるとしても、各国政府はその手にしっかりと規制手段を確保した上でのことであった。
この制約された状態に風穴が開けられたのは、軍事支出(核軍拡競争、戦争政策等)に起因する財政赤字と国際競争力の低下による貿易赤字の累増問題を処理しきれなくなったアメリカが、ドル価値の安定(金に対するドル価値固定)という基軸通貨国としての当然の責務を放棄したばかりか、各国通貨に対するドルの相対価値を安定させる責任を主要先進国政府に押し付け、自国だけが国際収支への影響をほとんど気にせず国内で拡大路線を取るという身勝手な行動に走ったことを契機としてであった。この結果、歯止めなき対外債務をカバーするアメリカ財務省証券が世界のマネタリー・ベースに組み入れられ、基軸通貨本位制は米国債本位制へと移行することになった(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』)。
このようにしていわば力ずくで作り出された新国際金融ルールの下で、資本取引の自由化は以後急展開を見せることになるのだが、それは、結局は、アメリカから垂れ流されてくる膨大な「余剰ドル」を、各国金融市場の壁を突き破って自由に運用するにはどうしたらよいかという問題を解決することを意味した。そしてこの問題の解決のためには、二つの条件が必要であった。一つは、国際金融市場を駆け回る「余剰ドル」の相対価値が先進諸国政府の協力(抑制的な財政政策、政策協調)とIMF、世界銀行等の国際金融機関(結局はアメリカ政府)の監視下で維持されることであり、いま一つは、「余剰ドル」を他の国の資産に自由に変換できることであった。前者は、ドルを資産として保有する意思と行動の有意味性を保証するものであり、後者は、それがまさに「余剰」であるにもかかわらず、他の国の資産を引き当てにその「余剰」性を解消しようとするものである。この二つの条件が確保されさえすれば、あとは資金調達者、金融仲介機関、投資家、投機家等々が大小入り乱れてこの「余剰ドル」に群がり、ドルといういわば「仮想資産」(バーチャル・マネー)を本物の資産に変換する「資産運用」ゲームに興じるのみであった。
グローバリゼーションの論理
ブライアンとファレルの議論に拠りながら、グローバリゼーションの論理を検証してみよう。彼らは、グローバル金融市場がブレトン・ウッズ制度の束縛から解放されたのはアメリカ政府による少しの手助け、つまりアメリカが同制度を維持するに必要な財政・金融の規律を守らなかったからだと正直に述べた上で、国際社会は、このようなアメリカ政府の行動と「余剰ドル」の発生を肯定的に受け止め、完全に統合された単一のグローバル資本市場の形成に向けて全面的に協力すべきである、と主張する。
「余剰ドル」がグローバル金融市場で資本として躍動しうるためには、それに見合うだけの取引対象が用意されなければならない。そのようなものとして期待されたのは、アメリカ以外の国々のさまざまな資産、すなわち通貨、債券、株式、不動産などであった。もちろん、それらは各国経済の骨格を成す最重要資産であるから、当然、各国政府の抵抗が予期されるところであった。
変動相場制への移行は、為替管理をめぐる各国政府の抵抗を殺ぐための制度的な契機となった。変動相場制移行後も、かなりの期間、各国政府の外国為替コントロールや銀行業務、証券市場への規制が残存したが、裁定取引、デリバティブなどの金融技術や情報・通信技術の発達は、外国為替の自由な貸借を通じて変動相場から収益を上げる機会を拡大し、対ドル投機を大規模に行うことを可能にした。今日、先進国における為替管理の廃止に伴い、先進国の外国為替市場、金融市場は完全に自由化している。
次にグローバル化が進んだのは、債券市場であった。国際企業は、債券価格や条件の違いを利用して、海外でより安く資金調達を行うために外国債券を発行し、またアメリカをはじめとして各国政府は、財政赤字・貿易赤字を補填するために海外で債券による資金調達を行った。既存債が増加するにつれて、債券流通市場が発達した。
株式市場は、為替、債券市場に比べてグローバル化が遅れている。しかし、最近、生命保険、年金基金、投資信託等の機関投資家は、外国企業の情報開示の進展、株式リサーチデータの充実、決済コスト・保管料の低廉化、株式デリバティブの発達等により、ポートフォリオ内の外国株式比率を急速に増加させている。
ブライアンとファレルは、「競争を抑えること、あるいは市場へのアクセスを拒否することを意図した規制は、その障壁を迂回する道を工夫する者にとって利益確保の機会をつくり出す。知恵のある市場参加者は、金融システムの革新と新技術(あるいは明白な逃避)を利用して、こういう収益機会を捉える。そして究極的には、規制や法律は機能しなくなり、改正され・・・次々に経済の力に屈した」と、事態を的確に捉えている。彼らにあっては、国内金融業界や金融市場に関する各国政府のさまざまな規制措置は単なる引き延ばし作戦に過ぎず、各国政府は必然的に単一グローバル資本市場の形成に協力していくことになる。1992年のERMの崩壊(投機筋に対する欧州各国中央銀行の降伏)からもわかるように、抵抗しても無駄なのだ。そして、市場参加者が個別に行う自己利益(ビジネス・チャンス)追求の結果として、統合されたグローバルな資本市場が自然に現われようとしているのである、と。
彼らがこのような議論を展開するいわば「最後の拠り所」は、世界の非政府プレーヤーが保有する膨大な流動性金融資産残高であり、その基礎には「余剰ドル」がある。マッキンジー・グローバルによれば、世界の金融資産総額は2003年で118兆ドル、IMFによれば、世界全体の金融資本市場(株式時価総額、債券残高、銀行融資残高の合計)は同年で130兆ドルだという。グローバル資本市場を徘徊するこの金融資産という超巨大怪物は、貪欲に自己増殖の機会を窺いながら、金利や為替相場に対してばかりでなく、実体経済に対してもその影響力をますます増大させている。
時代の対抗軸
グローバリゼーションは、私たちの生活とどのようにかかわっているのか。時代の対抗軸を考える上で、この点はぜひ明らかにしておかなければならない。
グローバル資本主義、したがって金融資産の所有者たちにとって最大の脅威は、実体経済(2003年の世界のGDPは36兆ドル)の数倍にも達した金融資産が金融危機によって突然大きく減価ないしは無価値化してしまうことである。ただ、先進国以外の国々で生じる危機については、アジア通貨危機の場合がそうであったように、主要国の通貨当局の協調介入、国際金融機関等の緊急融資で応急措置を施すとともに、発生国政府に金融システム改革を融資の条件として強要することによってなんとか対処しうるであろう。
問題は、先進国で生じうる危機である。資産所有者たちが想定する最も確率の高い発生因子は、経済の論理を無視して行動しがちなプレーヤー、すなわち先進国政府である。とりわけ、政府債務残高が危機的水準にある日本やヨーロッパの国々は、これ以上借入れを続けると、利払いの膨張によって借金地獄に陥り、債務不履行の危険性が高まり、いつ金融クラッシュが起きてもおかしくない状況になるとみられる。そうなると、グローバル資本市場に対するショックは計り知れない。したがって、「構造改革」という名の小さな政府を目指す行財政改革の実行は、資産所有者たちにとっては一刻の猶予も許されないのである。
グローバル資本主義の発展を望むのであれば、先進国政府は、国民の期待と強力な政治的圧力に押されて社会保障のために国債の発行や増税を行い、そうすることによって金融資産を不生産的に消費する、といった政策的過ちを絶対に犯してはならない。高齢化社会で増大する貯蓄は、生産的投資、たとえば高利回りを生む発展途上国への投資など、金融資産への投資に向けられるべきなのである。ブライアンとファレルはいう、「個々の政府は、グローバルな資本市場の他の参加者が示す金銭的利益追求と同じような方向で行動しなければならない」と。
グローバル資本主義の下では、政府もすべての非政府プレーヤーも、グローバル・キャピタリスト(株主)として金融資産を有効に活用しなければならない。グローバル・キャピタリストはグローバルな競争を志向する企業に投資をし、経営者たちは「株主第一」をモットーに、ひたすら株式時価総額を高めることが求められる。「株主第一」に行動しない経営者、つまりグローバル競争の観点からコストを大胆に削減し、収益を上げ、株価を高めることのできない経営者は、早晩その地位を追われるであろう。先進諸国では投資機会が相対的に減少しており、巨額の金融資産を増殖させる最も効果的な手段がM&Aであることも、これに拍車をかける。
グローバル資本主義、資本、そしてマネーに魂と時間を売り渡すことが求められる経済社会の姿と、経済財政諮問会議や小泉内閣によって紡ぎだされてきた今日の日本の経済社会の姿とは、かくも鮮やかに符合するものなのか、まさに驚嘆に値する。「好むと好まざるとにかかわらず、私たちは誰もコントロールできない世界へと向かっている」とはブライアンとファレルの出した結論であるが、はたしてそうであろうか。
カール・ポラニー(『大転換』)は、社会システムの内に埋没していた経済システムが自己調整的市場の出現とともに社会システムから独立し、それ以降、自己調整的市場の確立を目指す「経済的自由主義の原理」と生産組織だけでなく人間と自然の保護をも目指す「社会防衛の原理」との衝突が社会史を特徴づける、と喝破した。「経済的自由主義の原理」は、貨幣利得の最大化行動に支えられて、今日、グローバルな段階に到達している。そしてこのグローバル資本主義は、資本の蓄積を空間的極限にまで推し進め、一方では、生産力(自然破壊力)の発展と物質的富の増大と人口の増加を、他方では、自然破壊と貧困と社会的排除を、全地球規模でもたらしている。
これに対して「社会防衛の原理」は、社会防衛の枠組みとしての共和制国家に依拠しながら発展してきた。だが問題は、グローバル資本主義の段階に到達した経済が、相対的に独立して営まれる個々の社会の壁を貫通し、社会防衛の枠組みとしての国家の機能を著しく毀損しているところにある。もちろん、国家がグローバル資本主義に対抗する能力をまだ有していることは否定しえない。しかし、それがいまや不十分となっていることは明らかである。では、国連はどうか。その人道援助、開発援助の成果がWTO、IMF、世界銀行等によって簡単に破壊されている現状からもわかるように、これも不十分である。このような状況にあって、今日、5つの大陸でグローバル資本主義のさまざまな現れに対抗するさまざまな運動体が結成され、行動し、相互に同盟し、グローバル・ネットワークを構築している。ジャン・ジグレール(『私物化される世界』)は、社会防衛のグローバルな戦線としての「新しい地球規模の市民社会」にこそ希望がある、という。相対的に独立して営まれる個々の社会は、空間的には確かに制約されているが、その内なる世界は空間的制約を越えてはるかに広がり、互に繋がっているのである。
そしてその上で、社会と経済の関係をどう構築すべきか。社会システムは経済システムを再び自らの内に埋没させるべきか。歴史の逆行である。
デビット・コーテンは、資本主義と市場経済を峻別し、グローバル資本主義の否定としての「健全な市場経済」、つまり社会の身の丈に合った経済の形成を提案している。社会防衛から社会力の発展へ、そして社会力の発展段階に相応しい経済へのグローバル資本主義の改造を通じた社会と経済の共生。私は時代の対抗軸とそれに沿った社会と経済の関係をこのようにイメージしているが、これ以上論じる紙幅は残されていない。
最後に、グローバリゼーションをいかに論じるか。ギデンス(『暴走する世界』)はさまざまな分野での複合的現象としてのグローバリゼーションを主張するが、やはり経済のグローバル化が他の動きを主導している。
プロフィール
岩林 彪(いわばやし たけし)
1941年生まれ。松山大学経済学部教授。
専門は社会経済学、社会主義経済論。
HPアドレス http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~iwabayas/