『協う』2005年12月号 特集

あたたかいまなざしと冷い無関心
―日英グローバリゼーション考―

杉本 貴志
関西大学商学部 助教授


1.英国生活を終えて
 何かが違う…。強烈な違和感を感じた。しかし何が違うのか、しばらくはわからなかった。阪急線の駅の売店で、実に久しぶりに日本語の週刊誌を求め、それを車内で読んでいたときのことである…。
 2004年10月から1年間、筆者は在外研究のため、イギリスに滞在した。北部イングランドの古都ヨークを拠点に、マンチェスターやロッチデールなどでイングランド協同組合運動の歴史と現状を研究する機会を得たのだが、英国での生活を始めるにあたり、筆者が考えたのは、できる限りイギリスの普通の人々と同じような生活をしてみたい、ということだった。
 いまやロンドンには6万人ほどの日本人が暮らしているという。したがってこの巨大な首都には、至る所に寿司屋やラーメン屋があり、日本食品店に行けば、刺身はもちろん納豆だって手に入る。業務命令で数年間の滞在を命ぜられたビジネスマンにとって、それはたしかに魅力的あるいは安心な環境であろうが、せっかく1年間、英国において生協をはじめとする流通環境と消費生活を実地で体験し研究する機会を与えられた身にとっては、そんなところで日本を引きずった生活をするのは、もったいないように思われた。
 また、多くの留学生や研究者は、ケンブリッジやオックスフォードに代表される大学のキャンパス内にある寮に住み込んで、研究に没頭する毎日を送っているが、そういう留学のスタイルも、生協や流通や消費をテーマとする場合には、必ずしもベストとは思われなかった。本を読むのはどこでもできるが、英国人の暮らしぶりを肌で感じるのはこの機会しかない。だったら、それを可能な限り、もちろん疑似体験でしかあり得ないだろうけれども、ひととおり体験してみたい、と思ったのである。
 そういう思いで、人口18万という小さな町で1年間、築100年近くになろうかというテラスハウス(英国風の長屋)に住み、走行キロ数13万キロを超える中古車で生協やスーパーに買い物に出かけ、大きなネズミが捕れたなどという類の街のなかの事件ばかりを報じるローカル夕刊紙を愛読し、週末には1万人も収容できないような小さな競技場に地元のフットボール(サッカー)チームの応援に出かけるという、典型的なイギリス市民の中流層をできる限り真似た生活を送ってきた。
 ・・・そんな1年間の生活を終え、10月初めに帰国して、英国とは全く違い、清潔で、明るく、正確なダイヤで動く電車に些か感激しながら乗っていたのだが、そのとき手にした週刊誌『AERA』(2005年10月3日号)に、何とも言えない違和感を感じたのである。
2.日本のメディアとイギリスのメディア
 その違和感が何なのか、最初は自分でもよくわからなかったのだけれども、目次を見てみて、その原因がわかった。『AERA』というのはニュース週刊誌であると思うのだが、掲載されている記事がほとんど全て、国内の話題なのである。外国の話題はただ1ページ、それも観光名所の案内みたいな内容で、国外で起こっている事件についての報道は、実質的には何もない。ますます悪化しているイラクの治安も、アメリカを襲ったハリケーンの被害も、絶え間なく続くアフリカ難民の窮状も、一切無視されている。とくにそんなことを意識して読んでいたわけではないのだが、何か言いようのない違和感を感じた原因は、そこにあったに違いない。(偶々ということもあるだろうから、念のために、この週刊誌の次号と次々号も見てみたが、こうした傾向はほとんど変わりなかった。翌10月10日号でも、100ページ近い誌面のなかで、海外ニュースはアメリカのハリケーンを温暖化と結びつける記事が1ページあっただけである。)
 そんなことを強く感じたのは、おそらく、それまで1年間つきあってきたイギリスのメディアの姿勢が、それとは全く対照的だったからだろう。BBC(日本のNHKにあたる英国の放送局)のホームページを見れば、日本にいてもおそらく実感していただけると思うが、イギリスではテレビも新聞も、国外の出来事に非常に敏感である。もちろん、前述のローカル紙のように、イギリスの全国的なニュースさえあまり報道せず、もっぱら地域の話題に特化しているようなメディアもあり、たいていの市、町でそういうローカル新聞が発行されていているのがイギリスの魅力のひとつなのであるけれども、全国的なメディアでは、海外ニュースの比重が非常に高いように思う。中東情勢への関心が日本では考えられないほど高いのは、お国柄というか歴史的経緯の問題とも言えるだろうが、アジアについても、とくに天変地異や大規模事故などの惨事の際には、むしろ日本のメディアよりも熱心に報道しているように感じられる。
 たとえば、2004年末にアジア諸国を襲ったスマトラ沖地震とインド洋の津波による惨事については、発生からしばらく、詳細な報道が連日トップ扱いとなっていたが、筆者が帰国する直前にも、そうした報道がまだ続いていた。津波に襲われた人々のその後の生活を伝える特集番組などが、事件発生から10ヶ月程経過しても、週にいくつか放送されていたのである。こうしたメディアの姿勢からしても、あるいは政府援助以外の純然たる民間での募金やボランティアへの取り組みからしても、同じアジアの日本よりも、被災地、被害者への関心はイギリス社会のほうがはるかに高いのではないかと感じたのだが、どうだろうか。
3.大英帝国の現在
 こうした海外への旺盛な関心の裏に、イギリス帝国主義の名残りがあることを指摘することも、たしかに可能だろう。中東情勢への関心とブレア労働党(と生協をバックにした協同党との連立)政権のイラク戦争出兵とは表裏の関係にある。またイギリス人の一部(あるいはかなり多く)には、前時代の大英帝国の栄光を偲ぶ意識が強く残っているのも事実であって、祖国を守り、ナチスを倒した軍に対する敬愛の念はいまでも非常に強いし、逆に自国の植民地政策への反省は必ずしも一般化しているとは言えない。したがって、かなり一方的な形で、大戦中の残忍な日本軍を非難し、憎悪する世論が未だに定期的にくすぶっているし、原子爆弾の投下を正当化する論調も繰り返しメディアに登場する。
 戦後60年の記念すべき夏、筆者が住むヨークの地元夕刊紙にも、「ヒロヒトはB29の搭乗員を日本刀で惨殺して海に捨てるように命令した。だから原爆は当然の報いだ」という趣旨の無茶苦茶な投書が掲載された。さすがに頭にきて、これに対する反論の投書をしたら、同じように感じたイギリス人の反論と共に掲載された(その後何回か論争が続いた)から、その点ではイギリスの民主主義の奥深さをあらためて感じることができたけれども、未だにそういう感覚の人間が多いことも否定できないのである。
 しかし、そういうこととは別に、自分たちとは直接の利害関係がない海外の人々に対する関心、具体的に言えば、災害の被災地や途上国の窮状に対して、イギリス人が日本人よりも一般にはるかに大きな関心を抱いていることもまた事実であり、それを単に帝国主義の遺産であるとか、その時代の意識を未だに抱き続けていることの証左と片づけることはできないように思われる。とくに海外の災害についての日本のメディアによる報道に接すると、それを強く感じるのである。
 先に『AERA』10月3日号にはアメリカを襲ったハリケーンについての記事がないと書いたが、誌面をくまなく探すと、実は一カ所だけ、それについての言及があった。「東京23区洪水詳細マップ」と題された記事が、冒頭「米ニューオーリンズ市のような悪夢が東京でも現実になるかもしれない」という文章で始まっているのである。要するにここでは、アメリカ市民の悲劇は、日本人の将来にとっての教訓でしかない。いままさに彼らがどういう状態にあり、何に困り、どう苦しんでいるのかといったことは、関心の埒外にあるようである。同誌に限らず、日本のメディアが、あるいは日本人が、海外の動向に関心を寄せるのは、専ら日本と何らかの利害関係があるときに限られているというのが現状ではないだろうか。
 そういう思いをどうしても抱いてしまうので、帝国主義の贖罪としての同情ではないか、などと斜めに構えて批判するよりも、ここは素直に、イギリスの社会と市民の成熟ぶりに敬意を表したいと思うのである。
4.フェアトレードの広がり
 それは生協など流通業を見ても感じることで、フェアトレードへの取り組みなども、イギリスは日本と比べて遙かに進んでいる。いくつかの町を訪れたが、イングランドでは人口が10万以上の町であれば、かなりの確率でフェアトレードの専門ショップがあるように思われた。日本では東京など大都会でしか、そのような店は見かけないだろう。イギリスの流通業界は、日本とは比較にならないくらい寡占化が進んでおり、巨大なスーパーストアが圧倒的なシェアを握って(業界トップのテスコは小売業においてシェア30%を超える。日本とはひと桁違うのである)、街中の商店街、とくに個人商店は日本以上に壊滅的な状態にあるから、これは特筆すべきことである。
 また小売シェアの大半を握るチェーンストア各社の店舗においても、フェアトレード製品はそれほど稀なものではなく、ごく簡単に棚のなかに見つけることができる。そのなかでも先頭に立っているのがもちろん生協であって、コープでは各種板チョコレートをすべてフェアトレード製品に切り替えたほか、コープのワイン、コープの紅茶といった主力製品(紅茶はもちろんであるが、イギリス人はワインも実によく飲む。平均的なイギリス人なら、1週間に数本は飲んでいるのではないか。コープの小型店でも、オリジナルワインが10種類以上、その他の一般ブランド品も含めれば、数十から百種以上のワインが売り場に並ぶのがあたりまえである)にも、フェアトレード製品が目立っている。
 第三世界の生産者に対して、先進国の経済力を利用して搾取・収奪するのではなく、彼らの生活を保証する正当な代価を支払おうというフェアトレードの運動が、流通業者と消費者との理解と支持を広く獲得しているのである。日本の生協陣営によるフェアトレード運動も、生活クラブ生協のネグロス・バナナに代表されるように、理論的あるいは理念的には非常に高い水準にある(たとえば、バナナ価格に農民達の「自立基金」への拠出分を上乗せして徐々に減額していくという方式は、生産農家が先進国への輸出依存農業から脱却し、真に自立した経済をつくりあげていくことを支援するという点で、市価よりも高い価格で産品を輸入しようという単純なフェアトレードから一歩進んだ取り組みであると高く評価されるべきであろう)けれども、一般の人々のあいだでいかに広がっているかという点では、まだまだ日本はイギリスの足元にも及ばないという感がある。
 自分が口にする食物の品質に直接関わる有機農業や減農薬栽培にこだわる消費者は多くても、品質とは直接関係ないフェアトレードにはあまり関心を示さない。日英を比べると、どうしてもそんな傾向が日本には強いのではないかと考えてしまう。メディアと同じく、こういう面でも、日本人は、あるいは日本の流通業者あるいは生協は、もうすこし世界に目を向けるべきではないだろうか。
5.輸入農作物の広がり
 もっとも、流通や消費の部面におけるグローバリゼーションの進行は、フェアトレードに限られるものではない。70%を超えるという食料自給率が信じられない程、英国のスーパーの店頭にはあらゆる輸入青果物が並んでおり、国産品で目立つのは精肉くらいである。自給率では圧倒的に差をつけられている日本の消費者のほうが、むしろ「地産地消」など自国産の農産物に対するこだわりは強いのではないか。イギリスでは「こだわり」の消費者であっても、自国産か他国産かにはこだわらない人々も多いように思う。
 なぜならば、スーパーマーケットに並ぶ輸入農産物は、単に価格が安いという品だけではなく、栽培法などにこだわったものも多いからである。店頭に並ぶ有機農産物が外国産というのは、日本ではまだまだあまり一般的でないと思うのだが、イギリスでは珍しいことではない。大手チェーン各社の売り場では、オーガニック(有機)を掲げる食品が日本に比べて圧倒的に充実している(生鮮食品だけでなく、ジュースやヨーグルトなどの加工食品にも「有機」を売り物にした製品が必ずラインアップされている)が、その多くは英国産ではなく、EUのオーガニックの基準をパスしたスペイン、フランスその他の国々の品々である。ヨーロッパ経済の域内自由化がさらに進行すれば、こうした傾向はますます加速化されることとなろう。
 価格志向の消費者が輸入品を求め、品質志向の消費者は国産にこだわるというのが、現在の日本における消費者の概観であるといってもそれほど間違っていないだろうが、イギリスにおける流通の現場は、そこからさらに進んだ明日の日本の売り場光景を予言しているのかもしれない。こうなると、グローバリゼーションにはやはり抵抗したいし、抵抗すべきだという消費者も当然出てくるだろう。食糧安保論からであったり、食文化論であったり、あるいは日本農業論や産業空洞化論であったり、理由・論拠はさまざまであろうが、内向きな日本、大いに結構ではないかという意見にも、たしかに耳を傾けるべきところはある。第三世界の生産者に思いを寄せるイギリスの消費者が、自国の生産者をどう思っているのか、いささか疑問がないわけでもない。しかしそれでも、弱きもの、恵まれないものに対する彼らの暖かいまなざしは、偽善的なものだけではないと筆者は思う。
6.グローバリゼーションのオルタナディブ
 英国のコープの店を訪れて、最初に驚いたのは、多くのコープ商品が動物愛護を強調していることだった。売られている卵の半数以上は、ニワトリにやさしい開放飼育によって産卵されたフリーレンジ・エッグであり、マグロの缶詰にはイルカにやさしい漁法で収穫されたことを示すドルフィン・セーフのマークが必ず付いている。ブタにやさしい飼育法で育てられた割高なベーコンも、コープ自慢の製品のひとつである。
 そうした飼育法、漁獲法は、確実にコストを上昇させるだろうが、商品自体の品質にはおそらくほとんど影響しないだろう。それでも、生協を初めとする流通業者はそうした商品を提供する。そうでなければ、消費者が許さないからである。英国人は、物言わぬ動物たちに対して、限りなくやさしい。
 フェアトレードにおける第三世界への優しさは、突き詰めるところ、こうした動物への優しさと同じものなのだろうか。そうだとすると、それはやはり優越感の裏返しであり、分裂化し、役割が固定化され、格差が拡大するグローバリゼーションのもとで、強者である先進国に暮らすことの免罪符にすぎないのだろうか。
 一方ではそういう思いも完全には捨てきれないけれども、他方では、「共存」「共生」という観点から、一歩進んだ経験を積んだ社会としてイギリスを見てみることも、日本にとって有意義なのではないかと筆者は考えている。すくなくとも、全く無関心な冷たさよりは、目を向けてくれる人々のほうが有り難いのは確かであろう。それは第三世界の人々であっても、強国アメリカの被災者であっても、そしてまた仮に動物たちであっても、同じことである。
 グローバリゼーションの波がいま日本を襲っているといわれる。しかしそれが、内向きな日本、自分と利害が関わらないことに決して関心を向けようとしない日本を、変えたとは思えない。いま日本に必要なのは、何か別の形でのグローバリゼーションなのではないだろうか。国を離れて1年を過ごして、そんなことを考えた。
ロッチデールにある「阪神大震災犠牲者の追悼の碑」
ニワトリにやさしいコープの放し飼いたまご
イルカにやさしいコープのツナ缶