『協う』2004年12月号 コロキウム
〈特別インタビュー〉(コロキウム86)
スローフード運動と地域づくり
松田 博 (立命館大学産業社会学部教授)
今回はイタリアの社会運動を研究されている松田博さんに、 イタリアが発祥の地である 「スローフード運動」 と地域づくりについてインタビューさせていただきました。
日本においては、 ほんの数年前には聞くことのなかった 「スローフード」 という言葉が、 今やインターネットや雑誌のなどで多く紹介されています。 そこで、
実際のところ 「スローフードとは何を意味するのか」 また 「イタリア社会でそのスローフードがどう運動として実践されているか」、 そして 「これからの地域づくりに活かすテーマ」
についてお伺いしました。 (編集部)
【松田】私とイタリアの出会いは、 60年安保の盛り上がりを境にして日本の社会が大きく変わろうとしていた時期です。 ちょうど合同出版社から 「イタリア叢書」
や 「グラムシ選集」 などが出て、 非常に豊かでおもしろい内容でした。 文化や芸術、 生活に密着した考え方があって、 民主主義の深さのようなものに関心を持ったのがきっかけです。
自分の専門にするとは思いませんでしたが、 大学院に進んだ当時、 イタリアの本格的な研究者が少なかったので、 先生から 「イタリア語も含めて勉強しなさい」
と言われました。 やり始めると、 日本には文献もないということになって、 たまたまチャンスがあってイタリアに4年間留学したことが始まりです。
私の専門分野は社会思想史と社会運動史なので、 スローフードに絞った研究ではありませんが、 スローフード宣言を見ると、 この運動には3つの指針 (以下スローフード協会
HP より抜粋) があります。 それは、
(1) 消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、 質の良い食品、 ワイン (酒) を守る、
(2) 質の良い素材を提供する小生産者を守る、
(3) 子どもたちを含め、 消費者に味の教育を進める、
であり、 この3つの指針にもとづいてイタリアでは様々な運動が繰り広げられています。
●食文化の破壊
マクドナルドに代表されるファストフードのように、 新自由主義による地域破壊 (地域的連帯や人びとのつながりの破壊) が、 食の分野で最も鋭く出てきているわけです。
イタリアでスローフード運動が出てきたきっかけは、 自分たちがつくってきた食文化が破壊されることに対する危機感で、 「これは一種の生活の危機だ。 文化の破壊だ」
という認識がありました。 「ファストフード」 に対する 「スローフード」 という言葉ができる前から、 「人民の家」 (注) などを中心に、 イタリアの文化サークル連合
(ARCI: アルチ) の組織のひとつ 「ARCI GOLA」 という食文化クラブがあって、 私も何度か見学しましたが、 その地域の職人さんがつくるハムやチーズやパスタを受け継いでいこうという活動をしていました。
またワインやパスタは大規模な食品会社がかなりの市場を持っていて、 あまり品質は良くないけれども安くて画一的なものを売っています。 ですから、 「外から入るだけではなく、
国内で生産される、 手づくりではない工業化された食品も、 イタリアの食文化を破壊する」 としています。 味覚という、 文化のなかでも最も重要なものを破壊することに対する運動を地域からやろうとしたわけです。
(注) 人民の家とは…イタリア語で、 「カーサ・デル・ポポロ」 という。 カーサーは 「家」、 ポポロは 「人民、 民衆、 市民」 を意味する。 イタリア全土に1,000ヵ所以上、
存在するといわれるこの 「人民の家」 は150年の伝統をもつイタリア独特の民主的地域組織のこと。 各地域にある 「人民の家」 は名称は同じでもその地域の労働運動や農民運動、
レジスタンス運動などの歴史的伝統によって、 その形態や活動内容はかなり異なっている。 平均的イメージは、 3階建て+地下1階で、 パブやサロン、 政党や労組事務所、
会議・サークル室、 多目的ホール、 などである (松田博著 『ボローニア人民の家からの報告』 より一部引用、 編集部)。
●流行語でなく、 運動として
ただ、 この運動は、 実際に自分たちの五感を発展させることを中心にしています。 日本ではスローフードは 「グルメの復活」 「ぜいたく」 という受けとめ方ですが、
イタリアではまさに食文化のことであり、 味覚を発展させ、 それを受け継いでいくことです。 それが80年代のことで、 1989年がスローフード元年で、 これはパリで世界スローフード協会という組織が立ち上がった時期です。
90年代になって、 インターネットの普及とも関連して、 さまざまな地域の取り組みがイタリア国内でも国際的にも広がっていきました。
日本では、 「スローフードとは何なのか」 という議論がないまま、 「この店では手づくりの食品を食べることができる」 というように、 健康志向と相まって、
一種の流行語のようになりましたが、 スローフードの前提は 「地域で生産される地産地消」 です。
イタリアでは、 大量生産のなかで、 すぐれたパスタやサラミやソーセージをつくる技術がどんどんなくなっていきました。 特にスローフード発祥の地とされ、
スローフード協会本部があるブラという町は、 大変豊かな食文化の伝統があって、 それがどんどん工業化された食品に取って代わられていった時期です。 とてもいいワインがあったのに、
かなりの銘柄がなくなっていった時期とも重なります。
ですから、 私がイタリアへ行くと、 「動物の種が絶滅すると大騒ぎするくせに、 人間がつくってきたワインもひとつの種で、 それが絶滅するのに危機感を覚えないのはおかしい」
と言われました。 日本でも奄美の黒豚などの絶滅が危惧されていましたがイタリアでもピエモンテ牛という有名な良い牛が絶滅の危機にあったんです。 その地域で育てられ、
品種改良されてきた鶏や牛や豚や羊などが、 イタリアにはとても多いそうで、 なかでもピエモンテ牛は最高の肉質といわれています。 そういうものを各地域で、
掘り起こしていこうという運動でもあるのです。
また、 スローフード運動で特に強調されていることは、 そういうものをつくることの楽しさです。 京野菜同様、 いい材料を地元で調達するのも大事ですし、
それを調理しておいしいものをつくる楽しみも大事ですが、 それに加えてスローフード運動では 「ともに食べる喜び」 ということも言っています。 アメリカ型のテレビを見ながらチンして食べる
「テレビディナー」 は人間の食事ではない。 「個食」 の文化ではなく 「共食」 の文化を、 テレビディナーはやめよう、 みんなで談笑しながら食べて本来の食の豊かさを取り戻そう、
と材料をそろえる楽しみ、 つくる楽しみ、 食べる楽しみ、 それを通じてお互いが交流し合える楽しみ、 という運動なんです。
●地域との結びつき
イタリアの諺に 「すべての真実は胃袋を通過する」 というのがあるし、 ローマ帝国時代には 「グラスの底には真理が横たわっている」 (真理は飲まないとわからない) と言われてますが、 「人間が人々とつながる原点である 『食べる』 ことをもっと大事にしよう。 そこに地域の豊かさや、 人びとが手がけてきた食材の豊かさなど、 地域の歴史が反映されている」 というわけです。 だから、 地方によって全然違うんです。 上から中央集権でやらずに、 すべて地方に任せてチーズやワインの品評会など、 ゆるやかで多様なつながりを持っています。 これは、 食育ということで子どもたちの教育にもつながります。 先日、 生協総合研究所から出された研究レポート (「食育と生協の役割研究会」 報告書) を読んでみて、 親が個食の文化に慣れているから親が共食の文化を持たないということは、 大変だなと思いましたね。 東京都の調査によると、 家族そろって団欒しながら食べるのは週に1回あるかどうかで、 父親と子どもの会話時間は週に十数分しかないそうですから…。
――確かに、 日本の子どもたちに食事風景を描いてもらうと、 かなりの子どもたちの絵にテレビが映っているそうですね。 話は代わりますが、 地産地消のお話から思ったことですがイタリアの大都市部でもスローフード運動は広がっているのでしょうか。
【松田】大都市部にもいろいろな活動があります。 「ARCI」 や、 「人民の家」 があるところはそこでやっているし、 「人民の家」 がないところでもスローフードで集まったり、 協力店で一緒につくったりしています。 例えば、 イタリアの大学都市のウルヒツでは大学に一流のシェフを招いて 「味 (味覚) の大学」 をやったり、 レストランで若いお客を開拓するために学生ディナーをやったりしています。 イタリアのお祭りには、 必ずそういう店が出ていて、 一流シェフがボランティアで来ているんです。 私が行った時も有名なシェフが来ていましたが、 みんなボランティアでした。 当たり前という感じで、 ボランタリズムがすごいなと思いました。 ヨーロッパのチャンピオンになった人も来ていて、 みんなでワインのことなんか聞いたのですが、 「彼らは毎年ボランティアで来ている。 良いワインを知った人を増やすことが彼らの楽しみなんだ」 という話でした。
――スローフードは、 ファストフードに対するだけではなくて、 国内の大量生産システムに対する抵抗でもあるというお話でしたが、 その場合、 イタリアの大規模生協はどのように対応しているのでしょうか。
【松田】イタリアの生協は、 日本状況とは少し違うのではないかという気がしますが、 地域の地産地消的なものをかなり取り込んでいます。 フィレンツェにも生協の店がいくつかあって、 そこを見ると、 その地域のハムやソーセージやサラミがとても豊かで、 「これらは大型スーパーには売っていないんだ」 と言っていました。 値段というより品質が大事で、 「あれはとてもおいしいんだ」 とか 「安心だ」 と言っていました。 その点ではヨーロッパ型の地産地消です。 近郊農業の役割がかなり重視されていて、 生産・流通・消費が地域内で循環する仕組みも重視されています。 スローフード協会会長のペトリーニさんが 「アメリカ流は牛や豚が空を飛んでくるが、 そうではなくて、 人間が空を飛んで食べに行かないといけない。 食材が空を飛んでやって来るのはおかしい。 食べたければ、 自分がそこへ行くべきだ」 と言っていましたが、 イタリアは 「よそへ行く必要がないぐらい地域においしいものがあるわけだから、 まず地域のおいしいものを食べたらいいじゃないか」 という、 きわめて当然の話なんです。 社会的な浪費をなくすという面が大きいですし、 内発的で持続的な発展が大事ですから、 無理して何百キロも離れたところへ食べに行く必要はないわけです (笑)。
――これまでのお話を伺って、 「地域に根ざした取り組み」 や 「そこの文化や風土を大事にする人たち」 の存在が大きく印象深く残りました。 それでは最後に、 日本での地域づくりや生協運動への期待について、 イタリアの実践から活かせることをお聞かせいただけますか。
●地域社会の再発見の時代
【松田】大きなテーマですので、 そのことは画一的なことではないと思います。 ひとつは、 生協運動だけでなく、 いろいろな運動の“主体から地域を見る”のではなく、
いったん視点を変えて、 “地域からもう一度見直してみる”必要があるのではないかと思っています。 というのは、 地域が流動型から定住型にだんだん変化してきているのではないかと思うからです。
いままでは、 せいぜい 「パートタイム型市民」 でしたが、 「定住型市民」 に変わってきているのではないかと考えています。 仕事が中心で、 地蔵盆など年に何度かのお付き合いだったのが、
経済事情の変化や世代交代などもあって、 そういう変化があるように思います。
私たちの世代は 「方、 荘、 号、 字」 世代で、 最初の住まいは下宿ですから 「○○方」、 その次はアパートの 「○○荘」、 その次は公団に入って
「○○号」、 無理して郊外に家を持つと 「字○○」 となったわけです。 いわゆる 「住宅難民世代」 ですが、 これからはそういうことがなくなってきて、
「自分の家はそれほど大きくなくても、 その分、 地域を住みやすくしよう」 という時代になってきます。 そうすると、 地域とどう密着するか、 きめ細かな視点が大事になります。
子育て中の若いお母さんは食べ物にとても敏感ですし、 その点で地域に生協があることは安心感につながるし、 いろんな形で地域の活力を引き出す必要があるのではないかと思います。
だから、 生協運動も一度視点を変えて、 地域からもう一度見直してみる必要があるのではないか。 そうすると、 その地域やその地域の生協運動も違った可能性が見えてくるのではないかと思っています。
いずれにせよ、 イタリアでもヨーロッパ各地でも日本でも、 いまは地域社会の再発見の時代なのではないかと思うことがよくあります。 政治的な課題は主に政党の役割でしょうが、
社会的・文化的役割 (新しい世代を育てたり、 地域の連帯や、 伝統的な相互扶助ではなく新しい相互扶助のあり方づくり) という点で、 地域の新しい可能性をしっかり見てみる必要が私たちにはあるのではないかと思います。
いまは行政も含めて、 縦割りの目で地域を見ているところが多くあるので、 地域からもう一度見直してみる。 そうすると、 地域にはかなりいろんな要求が渦巻いています。
私が住んでいる嵯峨野地域は、 ほとんどが生協組合員で、 私の町内は全員が組合員です。 次の世代も住むとなれば、 やはり地域を大事にしようという意識が出てきます。
ただ、 いまは残念ながら、 それがかなり 「草の根保守」 にとりこまれています。 その点からも、 地域からいろんな運動体を見直してみることが大事だし、
それが地域の発見であり、 地域から見たいろんな運動体の新たな可能性の発見につながると思います。
●地域の中で多様な選択肢
二つ目には、 あらゆる人たちが地域でつながっているという連帯の精神をどう強めるかが大事になっています。 イタリアでもリタイアした世代の男性で、 食事づくりをしている人はけっこう多いし、
それが楽しみになっていて、 「食事づくりはたんなる家事ではない、 文化だ。 男子厨房に入るべし」 ということになっています。 「集まってお酒を飲んで、
ウサばらしみたいな伝統的な余暇消費だけでは立ち行かないだろう」 と言われていて、 多様化・高度化のなかで、 さまざまな自己実現や生涯学習的なニーズをどう満たすかが課題になっているようです。
高齢者の知恵や経験を生かすことも大事ですし、 実際にまだまだ活力のある人たちが多くいます。
ですから、 日本でも団塊の世代は高度に知的な世代で、 この数年先にはこの人たちが大量にリタイアし年金生活者になります。 この世代の人たちの多くはまだ年金はそこそこあるとはいえ、
経済的には窮屈になってきます。 それでも自己実現要求も高くなるので、 ボランティア活動をどうつくるかが大きいと思います。 また地域に根ざすという点では、
若者も含めて自分の時間を社会貢献活動に使おうというボランティアを多様に組織できるかどうかが鍵ではないかと思いますね。 一人ひとりの経験や要求も違うし、
知的なレベルも高いので、 それが彼らの自己実現にもなり、 地域貢献にもなるという多様な選択肢を用意することが大事ではないかと思います。
●さらなる発展の芽
同時に若い人たちは、 情報化社会のなかで生きているので、 ひとことで言えないぐらい多様化しています。 この多様な要求を地域でどう丁寧に活かしていくか。
ひとつの網でくくるのではなくて、 世代・性差・地域性などにそったミクロなプランが必要で、 地域によって異なる細やかなものをどう活かすかという視点が求められると思います。
もちろん、 都市型もあれば、 農村型もあるし、 都市と農村の中間 (郊外) など、 地域的特性も違うので、 あらゆる人たちが地域でつながっていくという連帯の精神をどう強めるかが大事になっています。
どんな要求でも、 ひとりでは実現できない。 よほどお金を持っていて、 いろいろなサービスを買える人は別ですが、 普通の人はそれはできないので、 地域で協同行動をして、
自分たちのライフスタイルを発展させようとしている。 このことの可能性が今、 本当に広がっていると確信しています。 その意味で地域の人々の生活と要求に根ざした生協運動のさらなる発展の芽は大いにあるといえるのではないでしょうか。
最後に、 イタリアのスローフード運動は、 世界の人々の友好と平和のための運動でもあることを付け加えておきたいと思います。
――私たちがイタリア、 スローフード運動から学びうるテーマは食にとどまらず、 「人々の生き方」 や 「住みつづけようとする地域づくり」 まで発展する運動なんですね。 今日はお忙しい中、 本当にありがとうございました。
松田 博さん