『協う』2004年2月号 コロキウム

住宅組合、 住宅協会、 オクテイヴィア・ヒル
―イギリス住宅政策の過去・現在―


阪南大学流通学部教授
島 浩二

<はじめに>
 かつてわが国にはイギリスを公営住宅の母国と評価する見方があった。 確かに国家の資金と地方政府のイニシアティブを結合させた公営住宅政策はこの国で19世紀末以来の歴史を誇り、 とりわけ第2次大戦後の労働党政権の下で大きく拡大したことは間違いない。 しかし公営住宅に消極的な保守党は常に別の選択肢を用意していたし、 サッチャー政権のもとでは公営住宅の入居者でさえその解体を支持したように見受けられる。 サッチャー政権誕生の直後にミドランドの小都市に滞在していた私は、 公営住宅の小さな自室を買い取りって外壁を奇抜な色に塗り分けることによって隣家と区別する試みをいたるところで目にした。 その頃、 人々が口にする municipal housing や council housing という言葉には、 都心部の荒廃や環境の悪化とほとんど同じぐらいのマイナスの意味が込められているのを知って愕然としたことを思い出す。
 国際的な比較は新しい発見をもたらす有力な手段だが、 尺度に据えられたものをキチンと確定しておかないといろいろなゆがみを生むことになる。 ここでは、 公営住宅に絡んでイギリスの社会のなかで浮き沈みしてきたいくつかの歴史的事項を紹介し、 イギリス住宅事情や住宅政策の“いま”を正確に見据える助けにしたい。


1. 住宅組合1 Building Societies
 所有形態別にイギリスの住宅ストックの割合を見ると、 今日では持ち家の比率が圧倒的に高く、 ついで公営住宅の賃貸と民間の賃貸住宅、 最後に後述する住宅協会の賃貸住宅という順番になっている2。 しかし、 いわゆる戦間期あたりまではこれとは逆に民間賃貸住宅が圧倒的に主流だった。 自分の居住する住宅を自分で所有することは、 ごく一握りの貴族や農業従事者を除いて例外中の例外だったし、 多数の勤労者にとって持ち家の願望はまったく無縁のものだった。
 しかし、 第1次大戦の勃発と同時に賃貸住宅の家賃が凍結されて民間資本による賃貸住宅の供給にブレーキがかり、 それに伴って生じた深刻な住宅不足に対処するために、 政府は大戦終了と同時に大規模な公営住宅建設計画を発表した。 この時以来、 紆余曲折を経ながらも公営住宅は成長するが、 同時に持ち家への動きも顕著になる。 この 「住宅保有態様の静かな革命」 という現象は、 ロシア革命を強く意識したイギリスの社会が、 住宅所有を中産階級から労働者階級にまで広めることによって社会の保守化をもたらそうとした結果である。
 しかし第1次大戦直後のこの時期には、 持ち家を具体的に促す政策はまだ確立していなかった。 銀行は個人に対する住宅融資に手をださなかったし、 金融業者からの抵当融資 private mortgage は、 短期の予告で全額返済を求められるなど債権者の権利が異常に強いために、 週給で生活する階層はほとんど利用できなかった。 したがって普通の人々が頼れる唯一の機関は、 住宅金融のための協同組合として古くから活動を続けてきた独特の金融機関である住宅組合しか存在しなかったのである。
 住宅組合は18世紀末に北部ミドランド地方の都市バーミンガムで誕生したと言われが、 それ以来今日まで営々と活動を続けている。 イギリスの町並みを歩くと、 住宅組合の看板はパブの次に頻繁に目に付くほど多くの店舗がある。
 イギリスでは労働者が自分たちの生活を仲間との協同によって守る動きが非常に早くから発達した。 そのなかにはフリーメーソンのような神秘主義的秘密結社から、 後に労働組合へと進化する友愛組合、 ロバート・オーウェンの流れをくむ消費協同組合、 葬式費用のための積み立てを目的とする埋葬組合、 少額の貯蓄を定期的に積み立てる貯蓄銀行など様々な種類があった。 住宅組合もそのような協同組合の一つで、 同じ職場や職種の仲間が集まって少額の積み立て (拠出) を継続し、 一定額に達すると住宅購入資金として会員に順次融資し、 発足時に参加した会員全員に融資し終わると解散した (当座組合)。 地域名や職場の名前、 創立者名などを冠した多くの住宅組合が19世紀中に次々と誕生し、 全国に支店網を展開して何千人もの会員を擁する巨大組合から、 同じ職場の数十人に会員を限定した昔ながらの弱小組合まで含めて、 世紀末の住宅組合数は4000近くに達した。
 住宅組合の仕組みをもっとも単純なモデルで説明しておこう。 たとえば20人の会員が一人毎週2シリング6ペンス3 (=月10シリング=年6ポンド) 拠出すると1年間でおよそ120ポンド貯まる。 これをくじ引きなどで選ばれた会員の一人に融資し、 融資を受けた会員は拠出とは別に同額の返済も行う。 こうしてすべてが順調に進むと全員が融資を得るまでに14年4ヶ月かかる計算になる。 19世紀半ばまでの住宅組合の多くは実際にこのモデルに近いシステムで運営されており、 毎週の拠出日には会員が近くのパブに集まり、 会計係に拠出金を支払ったあとは一杯飲んで仲間と親交を深め、 所定の金額が貯まった時にはくじ引き大会などが催されて大いに盛り上がったらしい。 このように、 初期の住宅組合にとっては融資だけでなく仲間同士の交流や親睦も重要な目的だったから、 運の悪い会員が15年近くも待たなければならない不効率はそれほど大きな問題ではなかった。
 しかし、 住宅購入資金を安全かつ手軽に融資する機関としてみれば、 初期の住宅組合はあまりにもリスクが大きすぎた。 そのため、 拠出と返済だけで基金を構成する相互扶助的なシステムは19世紀後半までに大幅に改められる。 その変更の要点は、
1) 融資の前提条件としての拠出とは別に、 融資を期待しない投資や預金を受け入れる。 これによって急速に基金を充実させ、 会員への融資に要する時間を短縮する。
2) 投資・預金への支払い利息を得るために、 会員に対する融資とは別に建設企業などへ融資を行う。
3) これらによって、 会員は発足の最初から途切れずに拠出金を支払いつづける (途中で参加したものは、 発足時点に遡って拠出金をまとめて払う) 必要がなくなり、 いつでも自由に参加できるようになる。 それとともに組合が解散する必要もなくなり、 通常の企業と同様に継続的に活動するようになる (当座組合から継続組合へ)。
の3点であった。
 もっともすべての住宅組合がこのように変化したわけではなく、 相互扶助的な協同性にこだわる組合もあった。 しかし1894年住宅組合法がくじ引きによる融資順位の決定を射幸心を煽るとの理由で禁止した後、 相互扶助原理に拘泥する当座組合は事実上存続を認められなくなって次第に姿を消した。 こうした制度の改変を経て、 20世紀はじめまでに必要なときにいつでも融資を受けられる安定感のある抵当融資の機関へと住宅組合は変身した。 それとともに、 国家が住宅組合に資金を融資したり、 あるいは住宅組合を通じて住宅を購入した人に対する所得税の優遇措置が講ぜられるなど、 住宅組合を通じた持ち家取得を政策的に支援する体制も整えられた。 また住宅組合と銀行とを隔てる垣根は次第に低くなり、 とりわけ1980年代初めの 「金融ビッグ・バン」 以降は銀行と住宅組合の相互乗り入れが進んだ。 いまではイギリスの庶民にとって住宅組合は銀行以上に生活に密着した存在になっている。
 以上のように、 会員の相互扶助組織としてその非効率をむしろ愛されていた住宅組合は、 その協同性から完全に脱皮することによってはじめて、 持ち家を促進する抵当融資の機関としてイギリスの勤労者に幅広く利用されるようになった。 しかし同時に、 住宅組合に依然として残されている非営利機関としての外観にも注目しておかなければならない。 すべての保有態様のうちでもっとも安定的な持ち家を住民の間に広め、 節約と倹約の精神をもった責任感のある優れた市民を育てるという 「大儀」 に、 住宅組合は依然として拘泥している。 住宅組合の多数が参加する中央組織である住宅組合協会は、 住宅組合が単なる営利企業とは異なり、 相互扶助を通じて住宅所有を広める社会運動の推進者であることをことあるごとに宣伝している。 協同性の実体を失いながらなお相互扶助に基づく 「社会善」 の達成を自らの目的として掲げ続けることこそ、 イギリスの住宅組合が今日もなお重要な機関として評価されるうえで欠かせない要素であるように見える。


2. 住宅協会4 Building Associations
 住宅組合と違って、 住宅協会は賃貸住宅を供給することを目的として19世紀半ば頃から設立されはじめた。 すでに述べたようにヴィクトリア時代には民間の賃貸住宅が住宅ストックの大部分を占めていたが、 零細な資本家で構成されるその大家は、 農村から大都市に流入した多数の労働者に手が届く安い家賃で賃貸住宅を供給することに成功しなかった。 そのために都市の住宅環境は19世紀中に著しく悪化し、 限界を超えた過密状態や住宅の荒廃、 スラムの形成、 衛生状態の著しい悪化などをもたらした。
 それを受けて19世紀半ばには公衆衛生の概念が社会的に認められ、 世界で初めての 「公衆衛生法」 (1848年) が制定されるとともにいくつかの都市でスラムの取り壊しや不良住宅の規制を求める条例が制定された。 しかしその結果は家賃高騰をもたらし、 コストの増大から大家は新たな供給をためらって住宅不足をますます悪化させただけだった。 もちろん、 国家や地方政府が住宅建設に介入することは強く拒否されていたから、 住宅不足と公衆衛生の改善という二つの課題が市場メカニズムの枠内で同時に解決されなければならなかったのである。
 19世紀半ばに設立された住宅協会は、 低所得者向け賃貸住宅を比較的低い利潤で供給することを追求するボランタリーな団体で、 上のアポリアを解決することを自らの課題として掲げていた。 この中には、 企業としての性格が強いものから非営利的な性格のものまで多様な類型が含まれている。 たとえば標準住宅会社と呼ばれるものは、 低所得者向けの標準的な賃貸住宅建設を行いつつ5%程度の利潤を上げることを目指した、 慈善の企業化とでも言うべき住宅協会である。 この対極には、 裕福な個人が慈善活動のために私財を投じて基金を設立し、 低所得者向けの賃貸住宅建設を非営利または低利で追求する、 企業的な慈善団体とでも言うべき住宅協会があった。 醸造業で財を成したギネス一族による The Guinness Trust やアメリカ人資産家が設立した Peabody Donation Fund などが有名で、 それらは今日でもなおそのままの姿で活動している。 その他に、 従業員向け宿舎建設から始まって低所得者向け賃貸住宅の供給一般を目的とする住宅協会へ発展したモデル・ビレッジと呼ばれるタイプもあったが、 これは双方の中間的な類型であった。
 実際にはこれらの協会が19世紀中に供給した賃貸住宅の数はそれほど多くない。 後に述べるように、 それは19世紀末の住宅問題の解決にはほとんど貢献しなかったという評価が一般的である。 また戦間期の公営住宅全盛期には当然のことながら低迷を余儀なくされ、 建設をストップしたり別の協会との統廃合を余儀なくされたものも多い。 それでも全体としては第2次大戦後にも活動を継続し、 1960年代になるとホームレスや老人など特定のテナントに的を絞った NPO 団体5 が成長して大いなる活況を呈する。 1960年代半ばには住宅協会を監督する半官半民の住宅公社が設立され、 協会の財政状況や運営方針をチェックするだけでなく、 地方政府の住宅計画と連携した賃貸住宅の建設を進める体制が整えられた。 また1970年代半ば以降、 住宅協会は賃貸住宅供給の主体と位置づけられるようになり、 既存の公営住宅の管理が丸ごと住宅協会に任されるなど、 公営住宅政策に替わって住宅協会こそが賃貸住宅供給政策の主役とされている。
 しかし、 かつて住宅協会の活動に対する否定的な評価が公営住宅政策への転換を招いたことに注目する必要がある。 1884年に召集された 「労働者階級向け住宅に関する王立委員会」 は19世紀の都市住宅問題を総括する報告書を公表し、 急増する需要に見合う安価な賃貸住宅の供給に住宅協会が失敗したことを宣言した。 この評価を契機としてイギリスの住宅政策は市場メカニズムによる解決に拘泥する姿勢から一転して、 スラムの取り壊しや賃貸住宅の建設に国家や地方政府が介入することを認めるようになり、 1893年にイギリス最初の公営住宅が建設されたのである。 ヴィクトリア時代の末期に失敗を宣言された住宅協会がその100年後にまで生き延び、 逆に公営住宅の 「失敗」 を確認することになったのは大いなる歴史の皮肉と言わざるを得ない。


3. オクテイヴィア・ヒル
    Octavia Hill の住宅改良運動6
 公営住宅政策に対する反省が保守党を中心に提起され、 公営住宅買取権政策がそのテナント自身を巻き込んで進められた1980年代は、 公営住宅の荒廃や管理問題が社会的注目を浴びた時期でもある。 都心部の荒廃、 若者による住居・施設の破壊 (バンダリズム) の横行、 スラム化の進行などの現象が、 公営住宅の管理に内包する問題点と関連しているとの指摘は、 これまでとは違った視角での公営住宅批判の論点を形作った。 とりわけアン・パワーは 『住民をそっちのけにした住宅』 Property Before People (Harper Collins, 1987) という印象的なタイトルの書物を顕し、 住宅を国家や地方政府が供給する 「国家介入」 の当否とは別に、 住民のニーズや状況を無視した官僚主義的な管理が住居に対するテナントの無関心を生み出していることを告発した。 テナント自身の生活状況をよく考慮した対人的な管理を通じて、 彼らの生活の確立と住居への関心をかきたてるためにはどうしたらよいのか。 このような問題意識に基づいてアン・パワーはおよそ100年も昔のオクテイヴィア・ヒルという女性に着目し、 忘却のかなたに押しやられていた彼女の業績を文字通り発掘・紹介した。 O. ヒルはナショナル・トラストの創始者の一人としては大変有名だが、 住宅改良運動の面での業績を知る人は数少ないだけに彼女の着想は興味深いものがある。
 O. ヒル (1838年~1912年) の父はケンブリッジで銀行業を営む裕福な階級に属していた。 彼の二人目の妻 (ヒルの実の母) の父 (ヒルの祖父) は医師であり社会活動家でもあったトマス・サウスウッド・スミスで、 19世紀公衆衛生運動の中心人物であるエドウィン・チャドウィックの盟友であった。 父はヒルの誕生直後に破産し、 その後すぐに亡くなったために、 彼女は祖父の援助を受けてロンドンに移住し、 早くから女子教育の手伝いなどの職業に従事する経験をもった。 ハイドパークの北にある 「パラダイス・プレース」 という皮肉な名前のスラムを目にしたヒルは、 おそらく祖父の薫陶によるものであろう、 スラム住民の生活改善を志す。 著名な文化人ラスキンから彩飾画家としての訓練を受けるなど目をかけられていたヒルは、 24歳の時にラスキンが父の遺産の一部で購入したスラムの住宅3戸からなる住宅協会を管理する女性の大家 landlady となる。 それらの住宅管理を彼女が任された時の条件は、 出資者であるラスキンに3%の利益をもたらすことと、 テナントとその家族に対して教育的な管理を行うことであった。
 当時の住宅協会は退役軍人などを管理者に雇い、 規則でがんじがらめの高圧的な管理を行うことが多く、 それがテナントの大いなる不評を買っていた。 ヒルの管理はそれとはまったく異なり、 愛情に満ちた全人格的な接触による説得を通じて家賃支払いをあくまで追求するものだった。 住民から向けられる冷ややかな視線にめげずに週一度の定期的訪問と会話を欠かさず、 利益の一部を住宅の改善やオープン・スペースの設置などに還元することによってテナントと管理人 (大家) との相互依存関係を実例をもって示した。 家賃を払うためには生活全般を立て直して賃金を計画的に使わなければならないこと、 節約と倹約によって将来の必要に備える重要性などを繰り返し説得することを通じた、 ソーシャル・ワーク的な管理の草分けがこうして始まったのである。
 ヒルの実践は短時日で奇跡的な成功をおさめ、 箸にも棒にもかからない粗野なスラム住民の生活を立て直し、 住宅内外をこざっぱりとした清潔な環境に保つように自発的に尽力するように仕向け、 しかも定期的な家賃の支払いを促して出資者に利潤をもたらした。 どうしても説得に応じないテナントには断固たる態度を貫いたから追放を余儀なくされた者もいたが、 全体としては少数にとどまったようである。 彼女の管理は評判を呼び、 何人かの篤志家が購入したスラム住宅から成る住宅協会の管理をヒルに任せるようになった。 しかしヒルの実践は全体として小規模なままにとどまり、 英国国教会の所有するテムズ河南のスラム地域をまとめて管理した1880年代に大幅に増加したとは言え、 全体で300戸程度であったことは忘れられるべきでない。
 ヒルは組織的な行動を嫌悪し、 自分の管理のノウハウを伝える組織7 や書物を一切残さず、 わずかに管理の仕事を手伝った仲間の女性宛に出した手紙がまとめられて残っているだけである。 また徹底した自由放任論者で、 国家や地方政府が民間の活動に介入する事例にはどんなことにも頑固に反対した。 さらに女性の特性を生かした住宅管理を体系付けた反面で、 女性が政治の舞台に出ることや政治的主張を行うことを好まず、 ジェンダーによる役割分担に固執した。 1910年、 「タイムズ」 紙に掲載された女性参政権に反対するヒルの論考は同時代人に大きな衝撃を与え、 ヒルの実践が人々の脳裏から忘れ去られる原因の一つになった。
 ヒルが残した手紙を読んでも、 彼女の思想や実践の意味を完全に理解することは難しい。 ヒル自身が語る彼女の 「専制主義」 はテナントに寄せる愛情や信頼と裏腹だったが、 近代的なヒューマニズムとは明らかに一線を画するそのような原則のもとで本当のところ何が行われたのか、 どうしてそれほどの効果を上げ得たのか、 テナントの側から見てもその効果は評価できるものなのかなどを、 完全に明らかにすることはできない。 しかしそれは別にして、 公営住宅が長らく欠落させてきた管理問題の解決に対して、 100年前に遡るヒルの実践がヒントになったこと自体の不思議は刮目に値する。


<結びにかえて>
 ここで紹介した3つの団体または個人の活動はいずれもヴィクトリア時代の盛期にまでその起源を遡ることができ、 その後いくつかの変容を経た末に現在まで生き延びている。 今日の住宅政策を考える上でそれらが重要な要素となっているか否か、 今を生きる我々の実践に具体的な手がかりを与えてくれるか否か、 その点の判断は人によって異なるだろう。 しかし、 現代のシステムの中にも過去の堆積がしっかり残っており、 何らかの痕跡を残していることだけは否定できない。 ヴィクトリア時代の住居などのハードウェアはさすがに耐用年数が切れて、 もはや日常的な使用に耐えなくなっているが、 システムや思考といったソフトの寿命は2世紀近くの時間の経過を軽々と超えるらしい。 歴史的遺物のように見えるこれらの思想や実践を学ぶことによって、 彼我を比較する私たちの作業は一層の深みと正確さを増すに違いない。
               
1 わが国では 「建築組合」 と訳されることが多いが、 住宅を実際に建築することは初期の組合に限られていたのでこの訳語は適切でない。 住宅組合に関する以下の記述は主として島浩二 『住宅組合の史的研究』 (法律文化社、 1998年) による。
2 1999年時点における連合王国 United Kingdom の住宅ストックの保有態様は、 持ち家が67.6%、 公営住宅が16.3%、 民間賃貸住宅が10.8%、 住宅協会が5.7%となっている。 Paul Balchin and Maureen Rhoden, Housing Policy (Routledge, 2002).
3 1970年代半ばまで、 イギリスの基本的な通貨にはポンド (パウンド)、 シリング、 ペニー (複数形はペンス) の3種類があり、 その交換比率は1ポンド=20シリング、 1シリング=12ペンスの関係にあった。
4 住宅協会に関する以下の記述は主として Helen F. Cope, Housing Associations (Macmillan Education Ltd., 1990) による。
5 ホームレスの救済を掲げた 「シェルター」 (1967年設立) は特に有名である。
6 オクテイヴィア・ヒルに関する以下の記述は、 主として Octavia Hill's Letters on Housing, 1864 to 1911 (Adelphi Book Shop, 1933)、 Gillian Darley, Octavia Hill (Constable & Co. Ltd., 1990)、 E. Moberly Bell, Octavia Hill (Constable & Co. Ltd., 1942) [平弘明、 松本茂訳 『英国住宅物語』 (日本経済評論社、 2001年)] による。
7 唯一の例外が 「ホラス街トラスト」 と名づけられた住宅協会で、 彼女自身に寄贈された住宅を管理するために1886年に設立された。 この協会は何度か名称を変更した末に、 2001年に設立された 「オクテイヴィア・ハウジング&ケア」 という住宅協会へと連なり、 ヒルの実践を現代に伝えるセンターの役割を果たしている。

プロフィール
しま こうじ
阪南大学流通学部教授 1947年京都府生まれ。 京都大学大学院経済学研究科博士課程終了 研究テーマ‥イギリス住宅政策史・歴史資料のデータベース化 大学での担当科目‥社会史、 外国経済史、 情報処理