『協う』2003年8月号 特集
第11回 総会記念 シンポジウム
私たちのくらしと くらし方の 「今」 を検証する
-フツーの人が安心してくらせる社会をつくりたい-
去る6月21日、 22日に当研究所の第11回目にあたる総会と、 記念シンポジウムを開催した。 当研究所では 「くらしと協同の研究」 を掲げ、 何年かに一度は
「くらし」 をテーマに取り上げ議論している。 今回は特に、 我々が直面している困難を、 所得の減少などの 「量」 の問題ではなく 「質」 やくらし方に及ぶような形で検討したいという思いからテーマをこのように設定した。
当日は分科会も含めて、 全国から160名の参加を得た。 詳細の 「報告書冊子」 は9月中旬以降、 各会員へ発送予定であるが、 本号ではそれに先立って、
シンポジウムの各パネリストの報告要旨を紹介する。 社会不安の中、 読者各位がそれぞれのよりよいくらしを考える際の糧になればと願っている。
なお、 シンポジウム当日行ったディスカッションについては報告書冊子を参照いただきたい。
■ 呼びかけ
浜岡政好氏 (当研究所副研究委員長、 佛教大学教授)
「バブル経済」 がはじけて以来、 多くの人々の願望を裏切り続け 「長期停滞」 が継続している。 企業は厳しい競争を勝ち抜くためにリストラに明け暮れ、
勤労者は失業の増大と所得の縮減に挟撃されて途方にくれている。 これに社会保障の 「構造改革」 と称するセーフティネットの縮小が推進され、 生活不安は一段と強まっている。
本当に 「構造改革」 なる 「治療」 が済めば、 以前のようなくらしが再び可能になるのだろうか。 私達は 「構造改革」 推進者たちのふりまく 「希望」
や 「夢」 の怪しさを薄々は感じている。 「競争至上主義」、 「市場万能主義」 による今の 「治療」 では私達の願うくらしやくらし方はますます危機に追い込まれる、
とも感じている。
私たちのくらしは 「今」 どうなっているのであろうか。 またこれからどうなるのだろうか。 私たちのくらしが直面している 「困難」 はどのような性質をもっているのだろうか。
どのようなくらし方が危機の克服に結びつくのだろうか。 今回のシンポジウムではくらしとくらし方の 「今」 を多面的にかつ徹底的に検証したい。
この検証に当たっては、 3つのレベルを設定している。 1つは家計など 「生活経済」 の動きにみられるくらしとくらし方の 「今」、 2つは家族やコミュニティーなどの
「中間領域」 における関係性から見たくらしとくらし方の 「今」、 そして3つは 「個人」 レベルでの活動の仕方や意識の状況からのくらしやくらし方の 「今」
である。 このように多面的に捉える事で、 今日の私達のくらしが直面している課題の性質が浮き彫りになるであろう。
サブタイトルに付した 「フツーの人が安心してくらせる社会」 を作る事は、 単にこれまでのくらしやくらし方の再現ではない。 これまでの大量生産・大量消費に翻弄されるくらし方や固定的な性役割を前提としたくらし方、
そして 「弱さ」 を排除したくらし方などへの 「反省」 を踏まえた、 新しいくらし方の創出こそが求められるのである。
■ パネルディスカッション
■ 「不安をみつめ、 会話と、 幸せの定義を」
野田正彰氏 (京都女子大学)
「不安」 と、 その裏にある会話の欠如と感情の低下について話し、 「協同」 について生協に望む事を述べたい。
90年代末からの不安の中身は3つであり、 1つは女性、 特に生協の主体である中年女性の不安、 2つ目は中高年男性の不安、 3つ目は現代の若者の不安である。
女性の不安という事が言われたのは70年代からである。 経済成長期、 男達が会社で多くの時間を過ごし、 核家族化が進行する中、 女性は育児に悩んだ。 上昇志向の強い社会で
「優良児を育てなければならない」 という強迫的な思いも多くあった。 80年代に入ると、 社会の中流化現象の下 「作りあげた現在の生活を維持したい、 しなければならない」
という思いを持つ女性も多く、 それを私は論文の中で 「努力の不安」 と呼んだ。 90年代の後半になると、 長引く不況とリストラの中で、 女性も急速に社会不安を感じるようになった。
そして現代では、 自分の不安は何であるかがイメージできないまま、 不安という事が言われているのではないだろうか。 逆にいえば、 安心した生き方を自分なりに定義できた上で不安だと言っているかどうかは多分に考えてみる必要がある。
次に中高年男性の不安であるが、 その現われは70年代半ば、 いわゆる 「サービス情報社会への転換」 の中に見られる。 この頃までの精神科の臨床では、
既に述べた様な中高年女性の家庭生活の重圧による不安が多く見られたが、 次第に減って、 その代わり中高年男性のうつ状態や自殺企図の数が、 経済の変化と共に増えていった。
今や日本は自殺者を世界一出している国である。 中高年男性においては、 自殺がガンに次いで第2位の死因となっているし、 一般臨床的にも現在の中高年の男性が精神科の外来で増えたまま維持されている現状がある。
規制緩和、 競争、 民営化等の言葉が飛び交う中、 診療の場面では非常に強い過労の状態が訴えられている。 ファーストフード店やコンビニの店長達の労働時間はものすごいし、
彼ら帰宅後も業績を維持する事が頭からはなれず眠れない。 休もうにも 「代わりはいくらでもいる」 と言われかねず休めない。 また、 尾道の民間校長が自殺した学校の例であるが、
校長、 教頭の出退勤データ (セコムより) を見ると、 一ヶ月の超過勤務時間が200時間を超える月があるのがわかる。 「情報社会」 の名のもと、 教育委員会から送られる膨大な書類の処理に追われ、
家庭からも 「学校が 『総合学習力』 をつけ、 子供達に生きる力を」 などと言われ、 自分でも何をしているのかわからなくなっている姿がうかがえる。 これをマスコミは
「過労によるうつ病」 といいかげんな解説をするが、 決してそのような身体的な病気の問題ではない。 過労というのは、 実は社会的に作られたものであり、 本質的には
「日本的情報化」 の中で起きている問題である。
このような過労の問題を見ながら思うのは、 家族間の本当の意味での感情の交流の欠如である。 この厳しい状況の中、 配偶者はおどおどと見ているだけで、 そして本人は他の生き方を考えられぬまま、
会社に過剰適応していった。 また若者達は小さい頃からそれを実践しており、 状況にあわせる事だけ上手になった。 しかし状況に合わせるほど、 自分の内面は空虚になり、
生きる実感を喪失する。 現代の若者達は 「いつも携帯電話で多くの人と繋がっている」 事に強迫的である。 彼らは情報や好みを共有している事を常に確認しあっているが、
幼い頃から自分が本当に思った事や感じた事を相手に伝えるのには非常に不安を持っている。 なぜなら、 それが次の瞬間に自分の弱点として 「いじめ」 の材料になるのではないか、
という思いがあるからである。 表面的な情報だけを共有する中で 「繋がっているつもり」 になっていが、 こういう生き方をすればするほど感情が希薄化し、 喜怒哀楽の感情とはどういうものかがわからなくなっていく。
このような不安とそれを取り巻く状況の下、 私達に求められている事、 そして 「協同」 の意味について考えたい。 私達は 「幸せとは何か」 を国家によって定義されるのではなく、
個々人が自分なりに定義できる時代に生きている。 その意味で生活協同組合の運動も 「何が幸せなのか」 ということを積極的に考える姿勢を持つべきである。 そして、
それを保証するのが会話であり、 コミュニケーションである。 家族の中での会話や組合員同士の会話を通して、 何が幸せかと言うことを自分達で不断に提起していく姿勢がないと、
ディスコミュニケーションのもと 「人間の生活はこんなものだ」 という貧困な思い込みの中で不安をもつという状況を変える事はできない。 「何が幸せか」 を決めるのでなく、
話し合える事が大事であるように思う。 競争を生き抜く為に、 共同の仕入れを行って、 優れたものを安く仕入れるのと同時に、 会話と、 幸福の定義を私達がいかに行っていくか、
それが今この状況の中で求められているのでないか。
■ 「自立と共同による 『家計』
-性別役割分業型家計からの脱却を」
木村清美氏 (大阪産業大学)
家計は、 長い間、 「一つのまとまった単位」 とされてきた。 即ち 「家族のメンバーが稼いできたお金は全て一つにまとめられて管理され、 メンバーの個々の必要に応じて公正に分配される」
という前提の下 「家計内部に不平等は無い」 と考えられてきた。 しかし80年代頃から家計の中にも不平等があるのではないかとの関心が深まり、 世界各国で研究がなされてきた。
今回の報告では、 まず家計の財源について実体を踏まえ、 その家計を誰が管理しているか、 日本と諸外国で比較する。 そして日本の家計管理の仕方と、 家計内における夫妻間の不平等の関係を明らかにし、
最後にそのような不平等を解決する為にどうしたらよいか述べたい。
始めに誰がどれだけ稼いでいるかであるが、 総務省の 「社会生活基本調査」 によると、 有配偶の男性は休日を含めた1日平均で約6時間55分働いている。
対して有配偶女性の労働時間は、 働いている女性で平均4時間29分、 働いていない女性は平均4分である。 女性は、 それ以外に家事労働時間が長いので、 それを足し合わせると実は男性より長時間働いているのだが、
市場労働に限定すると男性の方がはるかに労働時間が長いという結果になる。 これらが当然家計収入への貢献度に反映され、 妻が働いている世帯も働いていない世帯も全て含めた平均では、
家計収入の82%を夫が稼ぎ、 妻の収入は1割にしかならないという結果が出ている。
次に、 個人が稼いだお金の家計への移転と、 誰が家計を管理しているかについて、 日本・スウェーデン・イギリスの調査結果を見てみる。 調査では、 次の6つのタイプに分類している。
■ 「妻が管理する一体型」 は、 妻が夫の収入を全て預かり管理し、 そこから夫に小遣いを渡す。 ■ 「夫が管理する一体型」 は、 その逆で、 夫が妻の代わりに全てを管理する。
■ 「共同管理型」 は、 夫と妻両方の収入を全てまとめて夫婦二人で共同管理する。 その他に■ 「拠出型」、 ■ 「手当型」、 ■ 「支出分担型」 があるが、
ここでは詳説を控える。 日本では 「妻が管理する一体型」 が圧倒的に多く、 8割弱を占める。 一方外国でこのタイプはめずらしい。 スウェーデンでは 「共同管理」
が約6割を占め最も多く、 イギリスでも約半数がこのタイプである。
なぜ国によってこのような家計管理のタイプの違いがあるのだろうか。 いくつかの研究で 「性別役割分業規範 (夫が働き、 妻が家事・育児の役割を担うべきであるという考え方)
が、 家計管理のタイプと結びついている」 と指摘されている。 つまり、 この規範の下で家計管理は家事の一つとして妻の役割となるのである。 意識調査で日本とスウェーデンの性別役割分業規範を比較すると、
日本では 「家事の最終責任は主に妻にある」 と答えた人が圧倒的に多く、 「生活費を稼ぐ最終責任は主に夫にある」 の回答も非常に多い。 対してスウェーデンではこのような回答は非常に少ない。
この規範意識の差が両国の家計管理タイプの違いをもたらしていると思われる。
ところで、 妻が財布の紐を握っていることを根拠に 「日本の妻の家庭内での地位は非常に高く、 強い権力を持っている」 と評されることが多々ある。 そこで財布の紐を握っていることが本当に家庭内の地位の高さと結びついているのかを知る一つの手がかりとして、
妻は握っているお金を自分のために使えているのかを調査してみると、 多くの妻は 「家族のために自分のお金は使わないでおこうとした経験」 を夫よりもはるかに多く持つことがわかっている。
これには2つの理由が考えられている。 一つは最初に見たように家計の財源が主に男性によって稼がれていること、 もう一つは、 妻は家事・育児の多くを担っている為、
予定される出費の時期や金額がよくわかっているため、 自分のために使うお金を切り詰めてしまうことである。 このように日本では、 妻は性別役割分業に基づいて家計を管理し、
そのことが家計内の夫妻間不平等に繋がっているというのが現代の日本家計の実態である。
では、 この不平等を解決するにはどうすればよいか。 夫も妻もそれぞれが自立することが必要である。 女性は自分で食べていけるだけの経済力を身につけ、 男性は家事能力や家計管理能力を身につける。
そうしてお互いに自立した夫と妻の共同による家計を作り上げてゆく。 これが家計内の不平等を解決する唯一の方法と思われる。 しかし、 性別役割分業を前提とした社会・経済システムが根強く生きている現状のなかで、
男女が共に自立できる社会は一朝一夕には作れない。 やはり政府が強力なリーダーシップを持って社会・経済システムの転換に向けて努力していかなければならない。
男女共同参画社会基本法ができ、 各自治体が条例を作っているが、 財界、 議会の強い反発に遭ってなかなか望ましい条例ができないという現状である。
男女共同参画社会を実現する道のりは非常に険しいだろうと予想されるが、 必ず実現しなければならない。 そのためには、 個人レベルでも努力が必要である。
我々は育った環境の中で、 「男とは、 女とは」 といった役割分担意識を身につけてしまっているが、 それを日常生活の中で問い直す必要があろう。 例えば、
男の子に家事を手伝わせたり、 女の子に経済的自立の大切さを自覚させるような育て方を考えてみることである。 また夫もできるだけ家事や家計に、 知識としてではなく身体で参画する努力をしていかなければならない。
■ 「つながり方の変化を通して、
暴力なしで暮らす・弱い絆の強さ・
関心のコミュニティー」
中村正氏 (立命館大学)
「中間領域 (メゾレベル) での対応からフツーの暮らしの展望を」 という事で、 主に最近取り組んでいる実践の内容と、 そこから感じることを述べたい。
ここ3~4年、 児童虐待、 配偶者間暴力、 ストーカーなど、 従来法律が取り締まっていなかった問題に介入が始まった。 これにより、 虐待されたり、 逃れたりしている人を救出する取り組みは徐々に整った。
しかし一方で加害者・虐待者をどうするかについて日本の法政策は無策である。 これに対して私は 「最終的に加害者・虐待者対策がない限りこの問題は完結しない」
と参議院で意見書を書いたり、 内閣府に委員会ができてからは委員として議論を続けているが、 なかなか聞き入れてもらえないのが現状である。 民事介入の折、
基本的には虐待や暴力の関係にある者同士を分離、 DV やストーキング行為があれば配偶者間の接近を禁止する命令が出されるが、 私は分離はとても一面的であると考えている。
分離した後に被害者にはケアを、 加害者には何らかの非暴力的行動援助をする事まで手を尽くす必要がある。
そこで、 これを何とか変えたいと考え、 具体的には暴力や虐待を繰り返す人たちに対して非暴力の方へと行動変容してもらうためのグループを組織し、 関西で活動を始めた。
これがとても盛況で、 自分でも 「何とかしたい」 と思っている人達が結構いる事がわかった。 ここへ来る人達の様々なケースを見ると、 家族機能の病理的なパターンが見えてくる。
家族が上手く機能せず、 暴力があるような家庭では、 世代間境界が上手く引けていない。 人は初め誰かの息子や娘で、 やがて自ら家庭を持ち、 「息子役割」
や 「娘役割」 を捨てて、 「夫役割」 「妻役割」 そして 「父役割」 「母役割」 を覚えていく。 しかし、 この世代間境界が上手く引けないと、 例えば父による娘への性的虐待や、
息子と母の過剰な一体化など色々と問題が出てくる。 これを上手い具合に自立させたり、 機能する形で再編成する事が、 家族への援助だと考えている。 具体的には、
子育てサークルや、 ひきこもっていた少年や青年達が出てきた後のグループワークなど、 従来は家族に押し込められていた色々な機能を外に一生懸命作っていき、
家族が上手く機能する 「ネットワーク」 を構成する事が必要である。
これまでの社会は夫婦間暴力を 「夫婦喧嘩」 で終わらせてきたが、 「DV」 という言葉を持ってしまった。 「暴力夫」 「DV 夫」 と言われた男たちは受け皿も無く病んでいく一方である。
男は群れ難いし、 感情表出もし難い。 そこで機能的な代替物を別途中間領域に作る事が必要で、 単に暴力を抑制するだけではなく、 父親を上手く子育てに参加させたり、
仕事がうまくいかない時の 「揉みほぐす場」 を設ける事が必要である。 その延長線上でヒットしたのが20代の初めて子をもつ父親だけを集めた 「子育て教室」
だった。 特に 「絵本の読み方教室」 はよかった。 たった5分でできる事だが、 絵本を読むと言う行為は、 気分や感情を込める事から感情表現のトレーニングになる。
実はこの対角線上にディスコミュニケーションの暴力 「つながりの破壊」 が来る。 だからその逆に、 つながりを積極的に作っていく為に、 父親自自身が相対的に外の世界で体験しにくい感情表出のチャンネルをどこかでたくさん作る事が大切で、
私は中間領域の活動にそれを期待している。 家族の周辺で、 家族の機能を代替したり、 あるいは家族が持っていたものをもう少し市民社会風にアレンジして提案する事が、
家族の機能障害を徐々に減少させると考えている。
阪神大震災以降、 学生のボランティア達が非常にアクティブになった。 そして NPO が新しく制度化された事を追い風に感じながら 「きょうと NPO センター」
を作った。 ボランティアを続けるうちに 「非営利で協同化しよう。 しかしお金のやり取りができて、 できれば仕事になるような取り組みがしたい」 という学生が多くなり、
京都市に拠点となる施設を作るように求め、 河原町五条に NPO を支援する新しいセンター 「人・まち交流館」 ができた。 ここでつながっている人達を見ると、
老いも若きも従来のつながりではないものを求めている人達が結構いる事がわかる。 これまでボランティアとして枠にはめてきた領域でないものが動き始めていて、
実にアイデア豊かである。 例えば、 アーティスト達の拠点となっている御幸町三条角の1928ビルの中で、 本邦初の NPO 法人による FM 局が開局した。
一つ活動を紹介すると、 鴨川に関しての活動をしているボランティアや NPO 団体と、 地元小学生、 そしてアーティストがコラボレートして、 「鴨川で感じた言葉を音にしよう」
と、 CD を製作するまで至った。 「ガラガラ、 ピシピシ…」 というラップ調のいい音楽になって、 京都中心では人気が出ている。 こうした活動を通じて、
人のつながり、 関係性が変わってきた。 「草の根保守的」 ではないような家族やコミュニティーのあり方がここにあるように思う。
つながりの再生と恢復のポジティブな例として、 家族だけでもなく、 会社だけでもない、 第3の空間をたくさん作っていく事が大事である。 またそのような提案をしたり、
交流する中で、 今後のあり方が見えてくるのではないか。
■ 討論のまとめ
【浜岡】
3人のパネリストの方々から、 今私たちが置かれている 「フツーでない状況」 について、 またそういった状況に対してどうすればいいのかという事を述べていただいた。
最後にまとめとしてもう一度、 今後 「フツーのくらし」 をきちんと維持できるような社会のあり方の為に、 我々はどんな事から始めたらいいのかをお聞きしたい。
【野田】
「不安」 は大事である。 「不安」 を叫ぶだけではだめだが、 「不安」 を通して私たちは社会を知る事ができるし、 自分がどのように生きていくかを分析することができる。
我々の生きるこの社会は、 ジャーナリズムの機能も非常に落ちており、 何が起こっているかもほとんど報道されない状況が作られている。 しかし、 自分のいくつかの
「不安」 を通して自分を認識し、 自分が付き合っている集団を分析していく事が大切であるように思うし、 その中で生活を楽しむ工夫をして欲しいと思う。 先ほど
「日本では自分の生活を楽しむのにお金がかかる」 という意見があったが、 もっともっと工夫ができるはずである。 私は、 生きる喜びとは、 よく知り合った人間と楽しく付き合う事だろうと思う。
だから自分の生活をよく見つめれば、 その中に楽しみを見つけ出し、 生活を作り直す事ができるはずである。 そしてその延長で、 参加できないような社会、 あるいは参加を阻みつつ海外の真似事のような場当たり的な政策を行うような社会を変えていく視点を持たなければならないと思う。
【木村】
報告の中で、 家計における男女の不平等を改善する為に、 男女ともに経済的にも家事能力的にも自立することが必要であり、 その実現には政府のリーダーシップによる社会・経済システムの転換が不可欠であると述べたが、
もちろん私たちも 「あなたまかせ」 にするのではなく、 声をあげていかなければならない。 せっかく生協という大きな組織があるので、 一つの大きな力として声をあげて欲しいと期待している。
また、 先ほどの中村先生の話に登場した 「年収300万円の暮らし」 を望む人々の考え方はすばらしいと感じた。 夫と妻が少しずつ働いて、 2人で家計を作ってゆく、
そういうライフスタイル、 そういう家計の形を提唱し実行する母体としても、 生協が力を発揮することができるのではないだろうか。
【中村】
これまで中間領域の役割について論じてきたが、 最後にその 「参加」 に関して付け加えると、 色々な選択肢を置きながらも、 最後の 「否定選択」 を選択肢に含める事が、
パターナリズム (父親的温情主義) や国家主導型にならない一つの切り替えではないかと思う。 つまり選択肢が多い社会は確かに豊かな社会だが、 「NO」 といえる権利が入っていることが重要である。
そういった社会を構想する事で 「フツー」 が日常的に安定し、 自己決定的によってうまく回っていけばいいと思う。 ただこの自己決定もさらに進むと強いものになってしまうので、
協同性のネットが必要となるのだと思う。 社会心理学的には 「弱いきずなの強さ」 という事を強調している。 家族や会社といった 「強いきずな」 の一方で、
色んなチャネルを持って繋がっていき、 「関心」 のコミュニティーをたくさん作る事が大切であると思う。
【浜岡】
ありがとうございました。
『貧困の克服』 の中でアマルティア・セン氏は、 「危機から学ぶ5つの教訓」 の3番目に、 「人間の安全保障」 を挙げている。 しかしこの4~5年の間に
「人間の安全保障」 はずいぶん壊され、 今大変な状況になっている。 木村さん話の中にもあったように、 これをきちんと組み立てている国もあり、 その意味で我々には
「人間の安全保障」 を日本社会の中でどのように現実化していけばよいか、 という課題がある。 もちろん国レベルの取り組みもあるが、 我々一人ひとりの生き方のレベルで、
市民社会の中にいったいどのような仕組みを作らなければならないのかを追求する事が求められている。
大きな転換期の中、 我々の 「不安」 は非常に強まっている。 野田さんが言うように、 このような 「不安」 ときちんと対峙する中で、 生き方や社会のあり方を問い直すことが必要ではないか。
こうした我々の生き方を含めたもう一つの暮らし方の提案が、 本日のシンポジウムの中で出されたのではないかと思う。
そして、 それをどのように 「協同の力」 に転化していくのか。 今日 「強いこと」 がずいぶん推奨され、 能力が劣ったり、 強力な活動ができないと、
「負けても仕方がない。 自己責任だ」 と言われかねない状況である。 この中で協同社会を目指してきた生活協同組合の価値の意義を再確認し、 それを社会的な共感を広げながら現実的な力にしていく事が課題として出てきているように思う。
中村さんのお話にあったように、 この厳しい状況下でも、 NPO をはじめ生き生きとした社会的活動がある。 これらと連携しながら、 協同組合がいかに 「協同」
を豊かにしていくか。 それを考える上で、 今回のパネリストの方々からは、 協同の活動のあり方や可能性について様々な示唆をいただいた。 これを自分たちの生協や地域でどのように具体化するかという宿題が我々に課せられたのではないだろう。
文責:宮川加奈子 (京都大学大学院修士課程)