『協う』2003年2月号 視角

教育基本法見直しと協同組合
井上 英之

  『協う』 の編集委員会から、 教育基本法改正問題が政治日程にのぼっており、 大変重要な問題であるので、 誰か執筆者を紹介してほしい、 との依頼が私のところに来ました。 もちろん、 私の友人・知人には教育行政学、 教育法、 教育史などで、 教育基本法について研究している者が多数おります。 したがって何人でも紹介することが出来ますが、 正直に言って 「大変にめずらしい依頼」 と思いました。 協同組合は、 その原則のひとつとして教育を極めて重視している組織でありながら、 果たして教育基本法をどの様に位置づけているのか、 という疑問をずっと持ち続けていたからです。 そこで、 「私が書きたい」 と立候補をし、 『協う』 のこの誌面を通じて問題提起をすることにしました。 是非とも御意見をいただきたいと考えます。
 教育基本法とは、 どの様な意義と性格をもつものなのでしょうか。 第2次世界大戦はファシズムと民主主義の両陣営の戦いでした。 民主主義の勝利は、 各国の憲法に 「教育を受ける権利」 を明文化させただけでなく、 「民主主義と教育」 という人類史上の大テーマを浮上させます。 その頂点に 「ランジュヴァン・ワロン教育改革構想」 と日本の教育基本法を登場させます。 前者は 「正義の原則」 として 「すべての子どもたちはその家庭的・社会的・人種的出身がどうであろうとも、 その人格を最大限に発達させる平等な権利をもつ」 としたものですが、 残念ながらフランス政府はサボタージュします。 これに対して 「真理と平和」 を教育的価値とし、 コメニウスやコンドルセ以降の教育原則をみごとに法律化しただけでなく、 日本の戦後教育改革を実現させたものとして、 教育基本法は世界的に評価されています。
 また、 その前文第一項で 「われらは、 さきに、 日本国憲法を確定し、 民主的で文化的な国家を建設して、 世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。 この理想の実現は、 根本において教育の力にまつべきもの」 とされています。 憲法において 「国民の不断の努力」 でその保持を願うとともに、 世代をこえて理想を実現するべく、 新しい教育を位置づけています。 このために教育基本法は準憲法として前文付きの、 まったく新しい法律として制定されたのです。
 戦前の日本においては 「教育に関する勅語」 が超法規の存在でした。 「信じて疑いを持ってはならない」 という天皇の言葉= 「勅語」 が教育を支配していたのです。 このため、 1個人の尊厳を重んじ、2真理と平和を希求する人間の育成、 3普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育、 が前文第二項に明記されて、 「勅語」 にはまったく見られない新しい教育のとらえ方が、 法規として国民合意によって制定されたのです。 「希求」 という文意には、 強く希 (ねが) い、 その実現を追求しつづける意味が込められています。
 第3条から10条まで、 国や教育行政が公教育で守らなければならない原則が定められていて、 「教育上」 という表現で機会均等、 男女共学、 政治的教養、 宗教に関する寛容の態度と社会生活における地位、 の重視や尊重が具体的に明記されているだけではありません。 第1条の目的及び第2条の方針では、 「あらゆる機会」 に 「あらゆる場所」 における教育における包摂的な原則が貫かれています。
 例えば、 1学問の自由を尊重し、 2実際生活に即し、3自発的精神を養い、 4自他の敬愛と協力によって、 5文化の創造と発展に貢献する、 教育こそが新しい教育が目指す方向とされています。 何のための教育なのかという点でも、 前文の■~■を整理して6項目に目的が整理されているのです。 生活協同組合でも教育が重視されていますが、 こうした方向や目的が意識され具体的に追求されているのでしょうか。
 教育基本法改正問題が正面から登場したのは今回がはじめてあり、 憲法改正の前段階として何がなんでもやりとげようと、 (1) 愛国心や公共という視点がない、 男女平等は実現している、 家庭教育やしつけの重視、 (2) 教育計画をこの基本法に位置づける、 という二正面からの攻撃になっているのです。 これまでの 「教育は不当な支配に服することなく」 を 「学校美化」 に変えようとか、 行政の条件整備義務を基盤整備に言い換え、 「人格」 や 「個人の尊厳」 を 「個性」 という表現でごまかそうという段階とは質的に異なります。
 私たちはあらためて教育基本法をしっかりとらえ直すことが今日求められているのでしょう。 なお教育に関する主要17学会はすべて教育基本法見直しに反対していることを付け加えておきます。

  
いのうえ ひでゆき
 大阪音楽大学教授