2001年12月号
視角


国立大学は営利企業になれるか

京都大学工学部 助教授
西谷 滋人

世間に吹き荒れる行政改革の嵐にのって、 政府は今、 国立大学も法人化しようとしています。 この9月末に文部科学省の検討会議がたたき台をまとめ、 来年度中の法案の策定をめざしています。 主な改革の骨子は、 経営権を持った執行部によるトップダウン的運営、 タックスペイヤー (納税者) の意向を反映する機構、 中期目標と評価です。 これとは別に、 文部科学省は国立大学トップ30という構想を打ち出しています。 これは、 「生命科学」、 「数学・物理」 など10分野を決め、 通常の教育経費などとは別に予算を重点配分する上位30大学を来年7月ごろに選考する予定です。 研究経費はすでに、 科学技術基本法をそのよりどころとして、 プロジェクト研究と呼ばれる重点分野への選択的配分がおこなわれています。 このような一連の大学改革はなにを目指しているのでしょうか。

英・米国政府は、 高等教育と世界経済とが交わるハイテク領域で“アカデミックキャピタリズム”を助長する政策を展開していると Slaughter らは分析しています [1]。 その政策とは (1) 製品開発や製造プロセス改良に関わる研究への助成、 (2) 市場ニーズに応える外部資金が豊富なカリキュラムへ学生と資産を誘導し、 より多くの学生を産業界へ低コストで供給、 (3) 学部や研究所がこのような業務をより効率的におこなえる環境づくりです。 国立大学の改革の方向はまさにこの線に沿って策定されているかのようです。 80年代の日本の経済的躍進に対抗して、 90年代に英米が採った高等教育機関の利用という防衛措置が、 回りまわって2000年代に日本に戻ってきたのです。

これに対して、 今年のノーベル化学賞を受賞された野依良治教授は 「大学が何か隠し球を持っていて、 それを産業界に渡せば一気に事業化できる、 と思ったら大間違いだ。 日本の産業に元気がないのは、 創造力が足りないからだ」 とバッサリ切り捨てています。 ( 『読売新聞』 (Yomiuri On-Line) 2001年10月16日付)

いずれにしろ日本で、 今ほど大学の叡知が求められている時代はかつてなかったかもしれません。 しかし、 大学での教育や研究は金になるか、 ならないかを基準にして評価できるのでしょうか。

「金にならない」 代表の純粋数学に近い世界で、 16歳のアイルランドの少女セアラがホットな話題となっています。 彼女が求めたアルゴリズムを使えば世界最強の暗号が作れ、 大金を手にするのではというのです。 しかし、 彼女はお金を目当てに研究を進めたのではなく、 数学者の父から受けた整数論の入門講座でその世界に興味を持ち、 科学コンクールでの発表準備を契機にどっぷりとはまったようで、 自伝にはそのわくわくする様子が記されています [2]。

「金になる」 代表のコンピュータの世界では、 思いもかけない新たな文化が育ちつつあります。 それはオープンソース・ムーブメントとよばれ、 リナックスに代表されるコンピュータの基本ソフトをボランティアで作ろうとする動きです。 そこで尊重される価値観 「それは創造性だ。 つまり自分の能力を想像力豊かな形で使い、 絶えず自分自身の限界を予想を超える形で乗り越え続け、 世界に本当に価値のある新たな貢献物を提供すること」 ができると真のヒーローになれます [3]。 リナックスなどの OS の基本的な目標は、 いかにして“車輪を再発明しない”か、 つまりすでにある道具を容易に再利用できるシステムをいかに構築するかです。 先人や他人の業績を評価し尊重する科学者の態度も、 ここに根があります。

オープンソースの創造性重視、 知識の蓄積、 評価などは、 次世代の産業・就労モデルの一つとしてだけでなく、 アカデミズムの新しい形を予感させてくれます。 現在の国立大学は残念ながら、 教育、 研究の成果を十分に社会に還元している組織とは言えません。 したがって、 改革は不可避でしょう。 しかし、 まず議論すべき日本社会のグランドデザインは後回しにして、 とりあえず大学は今の産業界の役に立つ組織に変わりなさいと言われても、 なんだかな…

一方、 本当に価値のある発見はセアラのような研究者からしか生まれないでしょう。 日ごろ接している大学生は、 「結果がこうなるからこうしなさい」 と言わないと動いてくれません。 研究課題のまわりでいろいろ遊ぶという事はなく、 (白黒ではなく) 白がストレートにでる課題設定を期待しているようです。 これは現代の大学生だけでなく、 彼らを育てた文部省も同じなのでしょうか。

グローバル化された社会では高等教育の選択肢は世界中に広がっています。 今回の一連の改革によって国立大学がどのようになるかは分かりませんが、 少なくとも私の3歳の息子が15年後に入学を希望する大学であることを市民の一人として切に望みます。





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