2001年12月号
エッセイ
協同の意味について
立命館大学生協 専務理事
沼沢 明夫
先日、 「協同組合学会」 を傍聴する機会を得た。 「現代の若者と協同」 というテーマでのパネルディスカッションに、 大学生協で活動している学生が参加したのがきっかけだが、 なかなか興味ぶかかった。
学生の発言は、 この間、 いくつかの大学の中で、 いきいきと進められている特長的な取り組みを具体的に紹介しながら、 いまどきの学生にとっての生協の意味や役割を自分の言葉で語ろうとするものだった。 違う分野で活躍している同じ年代の青年もパネリストとして参加していたが、 共通していたのは、 ひとりひとりの身近な興味関心が生かされることから 「協同」 が出発するということではなかったか、 と思う。 大学生協で言えば、 オリジナルのサンドイッチや焼き立てパンやパフェを自分たちでつくることであったり、 自分の大学の良さを見つけ出す 「キャンパスツアー」 であったり、 そんなことがとても大切なのだと言う。
そのことに対する 「大人」 の受け止めにはある種の戸惑いがあったように思う。 協同するという行為は、 たとえば 「安全な食品」 のようなはっきりとした目的があって、 そこに人々が結集するということではないか、 と考えてきた。 一方で、 「若者」 は、 ほとんど無秩序とも思えるような多種多様な要求を、 受け止めること、 受け容れられることが協同の原点だという。
「おいしいパフェがあったら楽しいのに」 という個人的な思いが、 あるとき 「生協」 という場で受け容れられる。 実現するために、 がんばってみようと思う。 自分が主体的に動くことで、 ほかの学生に共感が広がる。 実現する過程で、 生協の職員をはじめいろいろな人たちの関わりが必要なこと、 そもそも自分ひとりでは実現できないし、 いろいろな人たちと関わりあったほうが楽しいということ、 だから生協が必要なんだ、 そんなことを実感していく。
少々乱暴な言い方になるが、 自らの要求を自ら解決する経験に乏しい若者には、 そもそも協同して解決すべき課題など存在していない。 しいて言えば、 自分の学生生活を楽しくしたいし、 誇りをもちたいという潜在的な思い。 そんな、 「生き方」 や 「生活」 そのものが、 協同組合のテーマになっているのではないか。
学生の元気と誇りと助け合う気持ちを育むことを軸に、 大学生協の役割と事業を再構築し、 経営することが求められている。 目先のことだけに目を奪われず、 大きな転換ができるかどうか。 厳しい経営の現実をまえにして、 そんな決意でいる。
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