2001年10月号
人モノ地域2


おやきづくりを通して得たもの

---株式会社小川の庄---

「おやき」 という食べ物、 果たしてどれだけの人が口にしたことがあるだろうか?おやきとは小麦粉と水を練り合わせた皮に味噌や醤油で味付けした野菜や山菜を包み、 焼いたり蒸したりする素朴な食べ物で、 そのルーツははっきりとされておらず、 作り方や味も地域によって多様である。 もともと米作が難しい山間地帯で米の代わりに食べられてきた郷土食のおやきが今では日本国内だけでなく海外でも人気を博している。

その火付け役となった長野県上水内郡小川村にある株式会社小川の庄 (以後小川の庄とする) は 「まちづくり」 や 「コミュニティ・ビジネス」 の成功事例として様々なところでとりあげられているが、 何よりも注目したいことはこの事業の柱となっているのが村のおばあちゃんたちであるということだ。

日本人全体に占める65歳以上の高齢者が6人に1人と高齢化問題が深刻化し、 さらに山間地帯では過疎化問題にも頭を悩ませている現在、 これらの問題を解決へと導くヒントをこの地域を通して見つけていきたい。


小川村の概要

長野県上水内郡小川村は長野市から西へ20キロメートルに位置し、 総面積58平方キロメートルのうち山林原野が73パーセントを占めている。 急傾斜地を耕してつくった畑で野菜や大小麦、 大小豆を栽培し、 またかつては養蚕、 麻産業が基幹作目であったが化学繊維の進歩により衰退、 その後はそれに続くものはなかった。 人口はピークだった9202人 (昭和30年頃) の約3分の1にあたる3668人 (平成12年10月) で典型的な過疎の村で、 さらに若年層が他出して核家族化が進み高齢化率38.8%と県内トップクラスの地域である。

小川の庄設立に至るまで

その歴史はかなり古く、 昭和30年代にさかのぼる。 当時、 村の社会教育活動や青年団活動を支える一方で村の将来を案じていた青年たちは農地の荒廃を防ぐ方法として村の農産物に付加価値をつけ販売することに着目する。 その中の一人であり現在同会社社長である権田市郎氏は勤務先の村役場を退職、 中野市にある漬物会社 (株) サンエーに入社しそこで15年間食品加工、 商品開発、 マーケティングなど経営のノウハウを学んだ後、 ついに従業員7名、 資本金500万円で株式会社小川の庄はスタートした。 1986年のことだった。 ちなみに会社名である 「小川の庄」 とは平安時代に小川村が 「小河庄」 とよばれ、 北安曇郡美麻村から小川村、 中条村、 長野市の一部を範囲としていた荘園に由来し、 小川の庄は単に小川村だけでなく民俗、 風習を同じくするこれら地域の共通の発展と連携を実現しようという願いをこめて命名したそうだ。 さて、 地域に古くから伝わる食品であり加工品の掘り起こしとして注目されたおやきだったが、 農家の家でごく日常的に食べられていたものでそのまま商品化するのではなく全国の人たちに食べてもらえるようにと権田氏が母親の作ったおやきを東京のデパートへ持っていき試行錯誤を繰り返した末、 食品部長のお墨付きを得たという並々ならぬ努力がうかがえる。 農家の家でごく日常的に食べられているものをそのまま商品化するのでは売れないということがこのことから明らかであろう。 また、 販路や広告宣伝に関しても、 冬中作ったおやきを長野県庁やいろいろな場所に配り歩くことからはじめた結果、 現在では県内をはじめ、 県外各地のデパート物産展や催事に出展するなど、 販路を確実に拡大している。

おやき、 海外へ

おやきと小川の庄の名が海外へと知れ渡るきっかけとなったのは、 89年の頃。 評判を聞いて小川村を訪れたジャパンタイムス紙の外国人記者がおやき村とおやきを高く評価し、 海外進出をすすめたのであった。 こうしてアメリカ・ロサンゼルスで毎年開催されているジャパン・エキスポへの出展の機会を得、 飛行機はおろか特急列車にすら乗ったことがないおばあちゃんたちが75歳を筆頭に15人でついに海を渡ることとなった。 販売に必要な英会話や単語の勉強もし、 メイクも施して臨んだ当日、 会場では日本の大企業が居並ぶ一角で列をなした大盛況となり、 1日12時間働き、 3日間で1万2千個を売り切った。 山に囲まれた農家に嫁いできてこれまで静かに暮らしてきたおばあちゃんたちはこの思いがけない状況にうれしさと感動をおぼえ 「おら、 体しびれる」 というほどであったという。

その後、 フランス、 イタリア、 フィリピンでおやきやそばを携えての国際交流がすすみ、 ドイツのシュバルツバルト地方ではグータッハ村の人々と共に美しい景観づくりの方法を学ぼうと研修生派遣交渉が始まり、 オーストラリアでは関連会社 「ながの信州村」 を設立することになった。

成功へと導いたもの、 成功がもたらしたもの

こうして今では年商約8億円もの売上げをだしている小川の庄であるが、 その成功のポイントは小川の庄の経営理念と方針にうかがえる。

まず 「第3セクター方式による新しい村づくり事業」 とあるように村行政には事業運営の基盤整備にかかる支援を、 農業協同組合には資金の援助と製造原材料の確保を依頼、 要請し運営体制の確立をはかっている。 このバランスが和やかな職場をつくりつつも事業としてしっかりと成り立っている所以であるといえよう。 また 「一集落一品運動」 によって小川村に暮らす人々が生涯現役で生きがいをもって働けるようお年寄りが普段着のまま歩いて働きに行ける場所に 「村」 という工房を設け、 地区ごとの連帯による支えあいのネットワークづくりを進め、 地区の特徴を生かした商品の確立と独立採算型の運営を行い、 自信を高め、 各地域の活性化をはかっている。 さらには 「60歳入社で78歳定年」 であったのを 「もっと働きたい」 という要望から 「定年なし」 と変更するなど、 働くことによって楽しみや生きがいができ、 結果、 お年寄りの自立や予防介護が促進され、 一人当たりの老人医療費も全国平均に比べて随分と安いとその効果も非常に大きいといえる。

これからの小川の庄

バス停近くの事務所から距離にして約1、 7キロメートル、 標高約1000メートルにあるおやき村はその名前だけにちょっとした見世物的な施設、 もしくは建物がたち並んだものを想像していたため、 おやき村というのぼりが入り口に立てられた縄文竪穴式の建物一つを目の当たりにして私は正直、 少しあてがはずれた気持ちであった。 ところが建物の中に入ると、 ほんのり暗く、 静かで、 ひんやりと心地よい、 昔ながらの民家にふらりと立ち寄った、 というなつかしい雰囲気が漂っていたのである。 仲間と一緒におやきを丸めている活き活きとしたおばあちゃん達、 おやきを囲炉裏で焼いているおばあちゃん、 できたてのおやきやそば、 漬物をおいしそうに食べているお客さん、 ふるさとの味をおみやげにと販売コーナーを熱心に見て回るお客さん、 など素朴で魅力あふれる人やモノ、 空間がそこにはあった。

「東京に名が通ってくるとどこの村の村おこし屋も古い家を壊して大きいものを建て、 細い道を拡張して観光客用のマイクロバスを横付けしようとする。 そしてみんなダメになる。 おやき村は道は狭いし建物も働いているおばあちゃんも古い。 ここを絶対これ以上新しくしないでほしい」 以前おやき村を訪ねてきた外国人記者の言葉は今もなお守られ続けている。 一見、 山と畑とまばらにある民家に囲まれた小川村は、 古くから問題意識を共有してきた仲間と共に地域の食文化の発掘と開拓を試み、 人まねでもない、 地道な努力によって現在に至った。 それはおばあちゃんの働きぶりや表情にも見て取れるように極めて自然体である。 このように、 どの地域にも存在するであろう地域の経営資源を見出し、 これをいかに地域従来の色を損なわずに事業として成り立たせていくかが今後、 過疎化や高齢化、 地域経済の活性化を解決へと導くポイントになるにちがいない。

ところで、 最近ではゼミの研究や論文題材にとおやき村に足を運ぶ学生が増えているそうだ。 これを短期間でなく長期的、 もしくは一定期間村の人たちと共に働き、 仕事を通して農村の魅力を体験できるようないわゆるインターンシップ制度をつくり広く若者と高齢者がふれあう機会や農村の魅力を知る体制ができていけば、 より一層この事業の魅力や可能性が引き出せるのではないだろうか。 後継者問題をはじめ、 今後も目が離せない地域である。

(文責)
西村智子
立命館大学大学院政策科学研究科修士課程




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