2001年10月号
特集
協同の閉鎖性と開放性
-協同をめぐる問題群の整理-
ここでは、 くらしと協同の研究所の2001年度総会に合わせて開催された 「協同をめぐる分科会」 の模様を紹介する。
本分科会は、 タイトル( 「協同をめぐる問題群の整理」 )にあるように、 ある程度抽象的な議論を予想していた。 しかし実際には、 生協の実践的課題と現代社会の理論的課題がうまく交叉して、 実りある議論が展開された。 ここでの議論の焦点は 「協同の閉鎖性と開放性」 である。 閉鎖性と開放性がそれぞれ何を意味するかは本文をお読みいただきたい。 4人の論者がそれぞれ別の地点から出発しながら、 期せずして同じ問題を見ていることがお分かりいただけると思う。 いま協同の事業に閉塞感が漂っているとしたら、 その原因はこの開放性の欠如にあるのではないだろうか。
報告は、 松尾匡 (久留米大学経済学部)、 大西広 (京都大学経済学部) コメントは真方和男 (宮崎県民生活協同組合)、 中嶋陽子 (大坂経済法科大学) の各氏にお願いした (以下、 敬称略)。
以下、 筆者の責任で各報告を要約して紹介し、 最後に本分科会の意義について私見を述べてまとめとしたい。
協同組合人の倫理と責任
松尾 匡
社会システムは原理的に見て、 「共同決定社会か疎外社会か」、 「開放社会か閉鎖社会か」 という2つの軸によって分けられ、 4つの類型に分類できる。
協同組合や NPO は 「共同決定社会」 であると同時に 「開放社会」 でなければならない。 そこでは当然、 構成員の合意が必要だが、 その場合も個々の構成員のさまざまな個人的な事情が反映されなければいけない。 一方で固定されたメンバーの意向にだけ沿うものであってはいけない。 このように二兎を追うことは大変難しい。 しかし、 これがなければ協同組合や NPO と名乗りつつも実態は前近代的な組織であったり、 残り3類型の何らかの混合に変質してしまう。
これまでの日本社会は、 資本主義経済と言いながら 「閉鎖社会の原理」 が中心だった。 日本型の雇用慣行、 官僚が支配するシステム、 血縁に扶助を任せるシステムは 「閉鎖社会の原理」 でやってきた。 それが現在、 市場化という自由主義的再編の中で崩れてきている。 市場の倫理がこれから必要になるが、 まだそれが根付いていない。 昔の 「閉鎖社会の原理」 では、 身内に対しては常に忠実であるべきだが、 集団の外側には迷惑をかけてもかまわないとされてきた。 さまざまな企業犯罪の原因もここにある。
ここで言いたいのは、 協同組合や NPO も 「開放社会の倫理」 に徹しないと腐敗してしまうということである。 特に市場にも関わり、 メンバ-シップにも関わるという組織である以上、 「開放社会の倫理」 と 「閉鎖社会の倫理」 を混合しがちであり、 混合すると最悪の結果が生じてしまう。
最後に協同組合の責任について問題提起をしたい。 例えば、 非組合員の独居高齢者が餓死したとする。 誰が悪いのか。 「閉鎖社会の原理」 では、 保守派は血縁者の責任だと言う。 左派は国が悪い、 行政の責任だと言い、 開放社会になってからは、 保守派は自己責任だ、 契約しなかったのが悪い、 契約していたとしたら契約違反をした保険会社の責任になる。 協同組合の立場では誰の責任なのか。 非組合員だから関係ないとはならない。 非組合員であっても何らかの責任があるのではないか、 責任があるとしたらその責任の及ぶ範囲はどこまでなのか。 執行部だけなのか、 活動家も含むのか、 一般組合員も含むのか、 責任対象としては業務エリアの中なのか、 あるいは海外まで関係してくるのか、 道義的責任にとどまるべきか、 あるいは何らかの形で公的なパニッシュメントを受けるというところまで将来的には展望すべきなのか。 こういう問題を解決することがこれからの協同組合には必要ではないか。
協同の限界性 と日本的企業主義
大西 広
企業犯罪の問題を考えてみて欲しい。 雪印の事件、 みどり十字の HIV の問題、 これらはいずれも企業の犯罪である。 日本の犯罪の圧倒的多数は企業の犯罪である。 このことは生協にも無関係ではない。 ところが、 これをどれくらい重大な問題だと考えるかという点では、 大きな温度差がある。
日本の企業社会はかなり独自のパターンを持っている。 終身雇用、 年功序列、 そのベースは年功序列賃金である。 労働能力は若いころから中高年にかけて少しずつ上がっていくが、 賃金の上昇スピードは労働能力の上昇のスピードよりも早い。 言い換えると、 年功序列賃金というのは途中で辞めることのできないシステムである。 こうして労働者の利益と会社の利益が一体化する。 日本には企業内いじめや窓際族の問題がある。 ひどい屈辱感を味わってまでなぜ会社にいるのか。 それだけ屈辱を味わってもよその会社に行ったら損になるからだ。 日本では年功制の下で途中退職ができないからそういう現象が起きる。
生協労働者の中でも年功序列賃金は全体として強まってきている。 1985年から1997年までの賃金カーブを見ると、 最初のころは比較的フラットだったが、 91年くらいを境にその後は40歳を過ぎても徐々に賃金が上がり続けるという年功的な賃金体系になっている。 このことによって生協にも組織の閉鎖性という問題が出てきていると思う。
この閉鎖性は協同組合という性格それ自体にも存在しているのではないか。 これが一番重要な問題である。 生協は組合員制度を持っている。 組合員の代表が理事になっている。 そういう人は当然生協を守りたいと思う。 生協が経営の実態を隠していたとする。 それが分かってしまうと 「何だ」 ということで組合員が生協からものを買わなくなる。 それは生協の危機である。 だから事実を隠そうとする。 生協は協同組合であって内と外、 組合員とそうでない人がはっきり分かれている。 そういう制度をわれわれは良いものだと思っていたが、 本当にそうかということを考えなければならない。
経営者責任の問題でも生協は非常に曖昧だと思う。 私も京大生協で、 非専従の副理事長を経験したが、 1年やってもよく分からなかった。 そんな非専従役員に責任を取れと言われても取れない。 専門家でなく一般の消費者が経営のトップにつくということ自体、 われわれは良いと思っていたが、 本当に良いかどうか考えなければならない。
残念ながら生協は、 結局経営の責任も曖昧なら、 労働者の労働条件も守れない、 さらに販売や業績にも問題が出てきている。 私は10年ほど前に 「早すぎも遅すぎもせず 『株式会社化』 を推し進めよう」 と書いた。 早すぎても駄目だという意味は協同組合だからこそうまく行っているところもあるからだ。 しかし、 それが少しずつ減ってきていて、 問題点も大きくなってきている。 少なくとも、 この10年間の変化を振り返った時、 そのスピードは遅すぎた。 協同組合へのこだわりを、 もう少し速いスピードで放棄しなければならないのではないか。
宮崎県民生協の組織運営の立場から協同を考える
真方和男
宮崎県民生協は 「組合員さんが生協に出資し、 生協を利用し、 生協に要望を出すのは組合員の権利行使であり、 組合員さんの利用や要望を数値やデータとして一般的・抽象的にみるのではなく、 生身の人間一人ひとり一つひとつの具体的要望としてとらえ、 具体的に応えていくことが必要だ」 という考え方を誠実に追求し続けてきた結果今の組織がある。
今年は少し組織運営の考え方を整理した。 今まで、 いろんなルートでいろんな媒体を通じて声を聞いて、 事業に活かそうとしてきた。 ペーパーでつかめる声は4万7000件くらいだが、 よく考えるとまだ一人ひとりと向き合うことが弱かった。 もっと一人ひとり、 個に対してきちんと向き合おうということになって、 組合員さん全員に一人ひとり名前の入ったメッセージを送ることを始めた。 あなたから聞きたいとダイレクトに聞く体制をとった。
まず 「良かったこととか嬉しいこと」 を聞いている。 生協との関わりとか自分の暮らしの中でよかったことを発信していただいて、 それをみんなに見えるようにする。 また 「困っていることや不満に思っていること」 を出していただいて解決につなげていきたいと考えている。
商品情報についても、 誰が何を買い始めたのか、 誰が何を買わなくなったのかという情報は、 重要な意味を持つ。 それまでの暮らしの中で買われなかった商品がある瞬間から買われ始めたということは、 その人にとって何らかのインパクトのある情報が伝わって変化を起こしたのだから、 その情報さえつかめば店舗事業にも役立てることができるのではないか。
われわれは一人ひとり、 個との関係を本当に徹底して追及することによって、 その人が生協という自ら所属する組織との関係できちんと発言し、 それに対してきちんと答えが返って来る関係を実現しようとしている。 生協の構成員の一人であるとその人が自覚できた時に、 その人は他の組織との関わりでも、 そういう関係でありたいと思うだろう。 結果として 「生協のようにやれば良いのに」 と言っていただければと思っている。 構成員として大切にされていると実感できた時に、 その組織に対して信頼する心が生まれる。
だから、 先ほどの閉鎖性云々という問題についても、 一人ひとりを本当に大事にするということを組織が本当にやっているかどうか、 逆に言うとその人が知りたい情報については全部オープンにする、 隠さないということが大事だと思う。 いずれにしても分かる情報だからオープンにして、 同時にわれわれはどういうスタンスとどういう方向でやるのかというメッセージを発信し、 組合員さんがそれを受けとめて一緒にやりたいと思っていただけるかどうか、 それが重要だと思う。
NPO はなぜ元気なのか?
中嶋陽子
なぜ NPO が元気なのかといえば、 私が知っている大阪西成にあるホームレスのサポートの場合、 非常に強い宗教的ミッションを持っている人の活動がきっかけで、 ホームレスの人もキリスト教に対して大きな信頼感を持っている。 強いミッションがあることがポイントだと思う。
2つ目は、 キリスト教の方だけではなく、 その地域の福祉の公務員とか、 大阪周辺のじつに多様な老若男女、 職業もバラバラなボランティアが来ていることから分かるように、 人の広がりがある。 生協の場合、 組合員さんはやはり中産階級中心なので、 その辺が違う。
それから3つ目の組織的な特徴としては、 脱権威主義、 やはりこれがポイントだと思う。 その組織にはもともとホームレスをされた方も関わっていて、 堂々と意見をおっしゃるし、 自分自身リサイクル事業を始められた方もいる。 だから生協でいう 「組合員の声を聴く」 という話に置き換えると、 当事者の方も発言されるし、 ケアを提供している側も耳を傾けて聞くという徹底した平場の感覚が基本にある。 それから議論が活発で何か質問しても説明が返って来る。 そして肩書きが全く無視される世界である。 実際にいろんな人、 学生とか高校生とか外国人とかみんな混じってやっているので脱権威主義にならざるを得ない。 そういうことで、 組織としても風通しの良いものになっている。
4つ目として、 宗教的なミッションで始められた方を別にしても、 何をやるかということが一般の人たちにも明快に分かっている。 社会的排除に対する怒りの共有というようなものだ。 もう少しクールに見ると、 競合他社がいてもまだまだ足りない、 未開拓で、 客観的に見るとやっていく余地も多い。 主観的な気持ちだけで続くものではないのだから、 その点はクールに見ておいたほうがいい。
先頃、 野宿者の人たちに対する労働条件・労働供給の問題で、 運動が始まって以来という要求書が失業連絡会から出された。 先ほどの宮崎県民生協の話と通じるが、 現場に密着というか、 一緒に暮らしている人がいるので、 そういう生の声もプラスした冷静な政策的提言になっていて、 私のように素人でろくに経験のないものが読んでも、 すごく面白くて説得力があって、 ヒューマンな人権意識というのが自然に高まるというか、 単なるロマンチックなかかわいそういう話にはならない。 そういう説得力があるということに大変感動した。
共通していた協同の意味
的場信樹
ご覧になってお分かりのように、 協同の可能性に対する評価は各人各様である。 真方は肯定的、 松尾はやや肯定的、 中嶋はやや否定的、 大西は否定的である。 しかし、 こうした違いにもかかわらず、 むしろ共通点のほうに注目させられる。
協同には閉鎖性と開放性という両面があって、 現代の協同組合の問題はこの開放性の欠如にあるという考え方である。 しかし本当に重要なことは以下の点にある。 社会と協同組合は、 自由・平等・人権という共通の価値でつながっていて、 協同組合はこれらの価値をその内部で実現できなければ存在する意味がないという確信である。 真方が、 「一人ひとり、 一つひとつ」 と、 念には念を押してあそこまで 「個」 にこだわる意味、 そしてそれがどのような 「個」 であるかということを考えてみるだけで、 このことは明らかだと思う。
(文責:的場信樹 金沢大学、 当研究所研究委員会幹事)
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