2001年8月号
視角


新鮮だった 「異文化」 体験…緑の党世界大会

中嶋 陽子

この4月、 オーストラリアのキャンベラで緑の党世界大会があり、 私は個人的に参加した。 担当科目 (消費経済やNPO・NGO) の授業をよりリアルなものに改善したいという思いがあり、 緑の党が環境問題に専門政党としてどう取り組んでいるのかという興味があったからである。 大会への参加は非常にオープンで、 趣旨への大まかな賛同以外、 制限はない。 勿論、 大会での発言権は緑の党や関連グループの代表者だけである。 しかし、 同時に別会場では、 だれでもイニシアチブをとってワークショップを開いたり、 自由に発言したりできる。 本会議もワークショップも、 和やかでリラックスしたゆとり感が漂い、 部外者でも充分楽しめるものだった。 たとえば、 後者ではキリスト教と環境といったテーマもあり、 そこでは、 物質世界に対する自然の慈しみから人間の精神的営為の問題まで、 活発な意見交換があった。

全体を見渡せば、 一口にグリーンズと言っても、 国情により大きな違いがある。 軍事独裁国や非民主的な国では、 多くのメンバーが暗殺・投獄されたり、 亡命を余儀なくされたりしてきた (かつての韓国、 現在のコロンビアなど)。 オーストラリアのように、 緑の党は現実知らずの若者の流行病だと揶揄される国もあれば、 都市部で首長をもち、 貧困やマイノリティ問題に果敢に取り組むラディカルな所もある (カリフォルニア州)。 途上国では、 WTO、 IMF、 世界銀行、 合衆国などの多国籍企業への批判が、 主要な論点になる。 そのような中で、 彼らに共通しているのは、 現行の経済システムに対して繰り返し代替の必要性を強調している点である。 これを、 経済問題や社会の下部構造に関する彼らの共通スタンスと見るならば、 それがある程度具体的な青写真を伴わない限り、 現実的な説得力には欠ける。 これが、 総じて、 私の感じた消極的結論である。

しかし、 世界的にも彼らの躍進は著しい。 それはなぜだろう。 気のいい日本人が小泉氏に希望を託したように、 ロマンティックな環境主義者は緑の党に夢を見ているのだろうか?いや、 そこには、 より積極的な点があるようだ。 以下、 それを列挙してみよう。

第一に、 彼らは、 社会的公正に関する社会問題にきわめて敏感である。 とくに、 マイノリティ、 若者、 女性、 先住民、 文化等をめぐる問題について、 雄弁である。 市民活動家など、 元来、 現実社会に根ざした人材が豊富だからであろう。 状況を熟知しており、 その分、 考察も鋭い。 要するに、 社会運動・社会活動の先端部分との結びつきが強いので、 政党として社会的センスも磨かれざるを得ないと思われる。 たとえば、 グリーンズが市政を握るサンタモニカでは、 野宿者は路上生活の権利を認められ、 誰も追い立てる法的根拠を持たない。 日本の警察や行政の姿勢とは好対照である。 EU、 特にフランスでは、 貧困や路上生活を 「社会的排除」 の問題ととらえ、 各種の政策や理論化が進行中というが、 そのような方向性も、 彼らの問題意識と通じる。 こうした多くの社会現象への鋭敏な喚起や行動は、 グローバル化に伴う草の根からの 「モラルレジスタンス」 という言葉がよく象徴しているように思う。

第二に、 彼らは、 先進的で多様な社会的価値を示し、 その面での論点整理に優れている。 多くのマイノリティは、 経済面で発言力も小さく、 したがって社会的文化的にも周辺に留め置かれる。 その状況を改善するには、 いわゆる社会の上部構造から発信される社会的価値によすがを求めることになる。 したがって、 実践に基づく価値観の提示に強い緑の党は、 社会的マイノリティの心を魅了しやすいと思われる。 今回採択された緑の党の憲章では、 先住民族の環境親和的な知性の称揚、 参加民主主義、 非暴力、 種や文化の多様性などを前面に打ち出している。 こうした点は、 60年代の公民権運動の面影を継承しつつ、 かつ今日の若者の志向にも合致するものだ。 個人的に最も印象深かったのは、 「環境的公正なしに社会的公正なし、 社会的公正なしに環境的公正なし」 という文言である。 つまり、 人間は、 自らの人工物である社会に対しても、 母胎である自然界に対しても、 自分たちの行動が妥当であることを証する責務がある。 どちらか一方だけに対して正当に行われるということはありえない、 と指摘している。 その理論的な構築や具体的なビジョンは、 今後の彫琢に待つしかない。 だが、 群発した公民権時代の諸問題が、 今、 地球規模での環境問題と出会うことで新たな深みを得、 統合的な価値観へと向かっているように思われる。

第三に、 彼らは、 少数派尊重を言葉だけに終わらせない。 たとえば、 中高年層の発言はしばしば次世代に及び、 若者の活躍の場面も大変多く、 英語の多用に対しては英語圏の参加者自身が抵抗を示した。 グリーンズにはエスぺランチストも多い。 これらは、 民主主義を自称する者なら、 頭では了解していることだろう。 しかし、 「普通」 の多数派にとって、 マイノリティは、 常に想像力を働かせたり思いを馳せたりすることが難しい存在である。 少数派への喚起を怠らない点は、 人権の時代と呼ばれるこの時代に、 優れた長所であろう。

以上3点をまとめると、 社会の土台部分については十分なオルタナティブを示せていないが、 上部構造からは新しい社会的価値の実践例や枠組みを提示し、 主に後者の面が多くの共感を呼んでいる。 グリーンズは、 日本ではどう展開するだろうか。 日本からは無党派の市民派議員団体が正式参加し、 別途、 数名の神奈川ネットワークの女性が参加した。

なかじま ようこ
大阪経済法科大学非常勤講師
くらしと協同の研究所 研究委員会幹事


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