2001年8月号
コロキウム


生協労働論とサブシステンスの視点

金沢大学大学院社会環境科学研究科
博士後期課程
菊本 舞

はじめに

本稿では、 生協職員労働を中心として、 支払われない労働や活動についてサブシステンスの観点から論じることを試みたい。 サブシステンスという用語は、 一般的には、 市場に包摂されない領域で、 自らの生命や共同体を維持するために行われる生業に基づく自給自足的生活で、 生存を維持できるレベルの生活といった意味合いで使用されることが多いが、 ここでは、 フェミニズムの立場から論じた世界システム論の提起(注1)を念頭に置いている。 すなわち、 サブシステンスとは人間の活動の 「根底にあってその社会の基礎をなす物質的・精神的な基盤」(注2)であり、 サブシステンス生産とは、 他人労働の搾取を伴わない労働や活動からなり、 自然の収奪を前提としないような生産である(注3)。 なお具体的な場面でサブシステンス労働・活動を規定する際には、 常にどのような質を伴う労働・活動か、 どのような 「必要」 にもとづく労働・活動かといった観点から、 その価値づけが行われる。 形態としては、 家事労働やコミュニティワークなどのアンペイドワークから、 有償の労働まで含みうるものである。

1. 生協における 職員労働のふたつの形態

まず、 職員労働を考える上で、 大きく分けてふたつのタイプがあると考えられる。

ひとつは、 標準化された作業、 マニュアル化された労働としての職員労働である。 これは一方で管理者にとって、 作業人時の管理と残業を発生させない仕組みづくりに有効であり、 また他方で作業者 (現場職員) にとってみれば、 作業の標準化水準が一定のレベルに達することによって労働に対する一定の満足も得られる(注4)。 そして各事業所や組織全体としても、 目標の達成度やコストの管理などを客観的に計測、 比較することが可能であるという点で合理的である。

もうひとつは、 作業者の資質や主体的な行動・努力に期待し、 現場での自由裁量の範囲が広い労働である。 このようなタイプの労働の場合、 職務や作業内容の遂行が、 個人あるいは少人数単位か、 あるいは事業所全体かという規模の違いによって、 様々な違いが生まれる。 個人単位で職務を遂行する能力の高い人にとっては、 個人の自由裁量が広がれば広がるほど力量を発揮することができる。 また職務遂行に必要な単位あたりの人数が多くなればなるほど、 現場職員同士の合意形成、 計画決定から実行まで、 相当の時間と労力が必要とされることになる。

もっとも現実には、 ふたつのタイプの労働は混合した形で存在しており、 どちらかのタイプの労働しかない、 あるいはどちらかしか必要ないということにはならない。 つまりどの生協組織でも、 ひとつの組織として多くの作業について標準的なマニュアルやルーティンとしての枠組みが必要とされる一方、 同時に、 マニュアル化できない作業や労働をも抱えている。 職階で考えれば、 上級の管理者層になればなるほど、 標準化された作業よりも、 個人の自由裁量や判断が必要とされる職務が増える。 ただし、 ふたつのタイプの労働の組み合わせやそれぞれのタイプの労働への重点の置き方は、 組織風土や歴史、 経営方針とも無関係ではなく、 「生協」 と一口には言ってもそれぞれの組織ごとに異なると考えられる。

2.時間外労働への注目

残業とは、 労働基準法に準ずる各組織の就業規則に基づく所定就業時間外の労働を指している。 先に分類した職員労働のふたつのタイプに、 残業手当の支払われる残業と支払われない 「いわゆるサービス残業」 という項目を加えて考えてみると、 まず、 標準化された労働について残業が発生する場合、 その原因として考えられるのは、 突発的な事故、 作業者の未熟練、 稼働時間の管理者や上司によるOJTや適切なマネジメントの不足、 不適切な標準マニュアル等である。 つまり、 作業者の遂行能力だけでなく、 作業をマネジメントする側に、 より残業の要因が求められることになる。 この場合、 発生する残業内容について吟味を行い、 作業内容やマニュアルの改善、 作業者の熟練化等をはかることによって一定量の残業を削減することが可能であり、 原則として 「いわゆるサービス残業」 にあてはまるような労働は存在しなくなる(注5)。 一方、 自由裁量の大きな労働については、 時間外手当のつくべき残業かどうかという境界線を明確にひくことが困難である。 それは基準となる職務遂行時間や手順等がなく、 職務遂行後に表れる数値等の結果でしか計画の達成度をはかることができないからである。

それぞれの労働の特徴と残業との関係は、 生協組織だけに限らず多くの企業組織にあてはまるが、 生協職員労働の残業については、 どこまでが残業かという問いが常につきまとっている。 筆者は、 上司が指示し部下が遂行するような職務については職員労働の範疇になるのであり、 そのような職務において規定労働時間を超えて労働が必要となる場合、 それは職員労働としての残業であり、 組合員活動や生協運動ではないと考える。 よって、 標準化された労働について発生する時間外労働は残業である。 しかしながら、 標準化されない部分の労働について発生する時間外労働の規定については、 残業かどうかという明確な境界線を引くことが難しい(注6)。 さらにそのことが残業手当が支払われる残業に境界線を引くことを困難にしている。 組合員活動と職員労働との間に明確な境界線は引くことはできないというのは、 実は、 職員労働の規定の曖昧さからきているのではないかと考えられる。 しかし職員労働の範疇はすべての組織において同じ内容になるわけではない。 それは各組織ごとに異なるはずであり、 職員労働のあり方について、 各生協組織が、 現場職員と組合員両者の参加の下に職員労働と組合員活動の規定を行っていくことが必要であろう。

3.サブシステンスの観点から見た職員労働

職員労働の規定を行う際に必要とされるであろう概念のひとつとして、 前述のサブシステンスが考えられる。 現在、 一定の組織化、 大規模化がはかられた生協で供給する商品は、 当該生協のある地域で生産、 供給されるだけでなく、 日本中、 世界中から集められる。 これは、 組合員や職員が日常かかわっている具体的な場所や地域としての生活圏と、 世界的な経済活動に規定される組合員や職員の生活が分断されていることを示している。 この分断を埋めるもののひとつとしてサブシステンスというパースペクティブがある。

賃労働としての生協職員労働には、 アンペイド・ワークが対置される。 アンペイド・ワークの典型は女性による家事労働である。 それは資本主義経済下では、 生産過程に対置される消費過程における活動でありながら、 労働力商品化体制に組み込まれ労働力再生産機能を無償で担っている活動である(注7)。 またある部分の組合員活動もアンペイド・ワークに含まれる。 しかし、 アンペイド・ワークに対置される生協職員労働は、 一方でサブシステンス生産という枠組みの構成要素となりうる。 それは家事労働の社会化の一手段としての協同組合労働の家事労働協業化説 (荒又重雄)(注8) に典型的に表れたように、 労働の発生形態に根拠をもつ。

サブシステンスを論じる上で規模の問題は欠かせない。 具体的には、 大きくとも各事業所単位での現場職員と組合員との間での、 「必要」 を充足する職員労働とはどのような内容をもつものかということが、 吟味されるべきであろう。 このことは、 実際の問題としては意志決定の問題として現れるが、 より深いところでは関係性の問題に置き換えられると考えられる。 それは例えば組織を構成する組合員と職員が互いに顔と名前を覚えられる関係にあるかということが大きく関わるであろう。 同時にそのことは、 生活の場の構成のされ方の認識にも関わる。

4.みやぎ生協の事例から

本稿でサブシステンスをとりあげたのは、 2000年5月末に、 みやぎ生協の 「特別対策必要店舗」 における組合員の事業への参加についてヒアリングしたことがきっかけとなっている。 結果としては、 閉店した店舗もあれば経営状況を改善した店舗もあるが、 組合員は自主的に店舗を 「もりたてる会」 や 「愛する会」 をつくり、 一時的部分的な事業参加を行い、 店舗の職員を巻き込んでいった。 台原店を 「愛する会」 では、 「特定対策店舗」 の指定を受ける前年の1997年から会としての活動を開始していたが、 1998年に入り指定を受け、 閉店に追い込まれるかもしれないのにこのまま活動を続けるのかどうか決断に迫られたという。 それでも会のメンバーは活動を続けた。 お店を 「愛する会」 や 「もりたてる会」 を通じて直接事業参加の行動を起こした組合員は、 組合員全体からすれば少数であり、 活動それ自体が他の多くの組合員へ広がりを見せたとは言えない。 一部の組合員がそこまでして経営不振店舗にこだわったのには、 その組合員にとって店舗や生協が特別の意味を持つ具体的な場所となっているからではないだろうか。 つまり単なる 「購買」 という機能にとどまらないコミュニティとしての機能を持ち、 組合員の生活の基盤を構成するもののひとつに生協があるのではないかということである。 それは 「年配の組合員が歩いて買いに来られる小型店を存続させたい。」 という会のメンバーの言葉に具体的に現れ、 さらに本質的には場所や歴史、 そしてそこに育まれる人間関係への愛着が組合員の行動を支えたのではないかと考えられる(注9)。 そのことは、 知らぬ間に世界経済に規定され左右されている日々の生活と、 日常的に目にすることができ行動することのできる生活圏との乖離と深く関わっている。 つまり組合員は 「生協」 という組織を 「道具」 に、 自らの生活を成り立たせるための行動に出たのである。 さらに言えば、 生活の基盤として組合員の 「必要」 を満たすものが生協以外にもあれば、 生協でない他の場所でそのような活動を行ったかもしれない。 このことは、 生協組織がどのような組合員の生活の 「必要」 のどのような部分にコミットしていこうとしているのかについて、 具体的に議論することの必要を改めて提起しているのではないかと考えられる。

生活のどのような部分にコミットするかについては、 生協組織あるいはより小さな地域ごとに具体的な選択をしていくことが必要であると考えられるが、 例えば、 生活の基底的な条件としての組合員の 「必要」 であるところの 「持続的で安定的な消費」 があると考えられる。 それは組合員自身のみの消費生活だけでなく、 組合員が大切にしたいと思う人、 つまり組合員の家族、 知人などの 「持続的で安定的な消費」 に広がっていく。 さらにこの広がりは 「大切にしたいと思う人」 が、 知人ではないが一定の面的広がりを持つところの地域社会、 そして地球上に現在生きる人々、 あるいはまだ見ぬ次世代を含む可能性を持つという点で無限である。 そしてこのことは同時に、 「持続的で安定的な消費」 を可能にするために、 生協に商品を供給する生産者や取引業者の生産や流通のあり方にも方向性を与えることとなる。 また職員労働の具体的な行動目標も、 何よりこの点から再考し議論される必要があると考えられるのである。

組合員の生活から生まれてくる様々な 「欲求」 は、 生協職員の流通業としての専門性の必要性をますます高めている。 しかし競合他社との厳しい競争環境は、 職員と組合員との日常的なコミュニケーションの時間をますます奪うものとなっている。 ところで前述の台原店を 「もりたてる会」 では、 メンバーである組合員がディスプレイしたコーナーが、 店に買い物に来た組合員の支持を集めることによって、 店内の他の売場のディスプレイづくりにも変化を及ぼしていったという事例がある。 このことは、 組合員によるディスプレイコーナーが、 購買することを通してしか生協と関わりを持たない多くの組合員の支持を集めることで、 結果として客観的には、 多くの組合員の参加を間接的に強める結果につながっていると言いかえられる(注10)。 それは、 比較的狭い範囲の地域の 「必要」 を具体的な事業につなげていく、 小さくはあるが着実なひとつの試みなのである。

5.共同体的な記憶をつくりだす労働・活動へ

最後に、 「必要」 を形に変えていく作業として、 なんらかの共同行動、 相互行為を通して、 意識的に共同体的な記憶をつくりだしていくことが必要なのではないだろうか。 共同体的な記憶とは、 愛着あるいは親密という意味を含むようなものであって、 ある種の時間の積み重ねと厚みを伴うものであるが、 それは必ずしも顔の見えるコミュニケーションの中からのみ形成されるとは限らないと考えられる(注11)。 個配や店舗事業が中心になればなるほど、 共同を媒介し、 共同の記憶づくりをコーディネートすることが特に職員に求められるだろう。 それは大集団としての共同行動でなければならない必要はなく、 むしろ小集団として、 あるいは一対一の相互行為を通してつくりあげられるものでもあろう。






菊本 舞 (きくもと まい)
専門は自治論。 元生協職員。 金沢大学大学院経済学研究科修士課程修了。 経済学修士。


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