2001年4月号
視角
払う人から、使う人へ
佐藤 義夫
介護技術と地域政策
介護保険が始まって1年がたつ。大手企業が苦戦し、地域に密着した中小が健闘、医療法人系事業者の一人勝ちというのが大方の総括である。仔細に見れば、ケアマネージャーの疲弊、家事援助の扱いやホームヘルパーの質と様々な話題にことかかない。
介護保険は「発展途上の制度」だとよく言われる。だから「多少の混乱は避けられず、それは大目に見なければならない」と。確かにその通りなのだが、混乱は「発展途上」の故に発生するのではない。むしろ介護や地域という問題が曖昧なまま介護保険に流れ込み、それに行政が対応できていないから発生するのである。そして、そうした行政の明確な方針の不在が地域の住民やNPOの批判の対象となったりもする。
例えば、地域住民やNPOの事業への参入が、「地域づくり」の契機としてではなく、安価な労働力として利用される。あるいは、介護サービスの質の第三者評価というものも同様だ。本来そうした評価は、住民の保険料を預かり運用する自治体(保険者)が責任を持つべき仕事である。にもかかわらず、評価の主体として住民やNPOが期待されているとすれば、それは既得権益に踏み込みたくないという行政の事情も手伝っている。期待されているのは能力ではなく、責任を転嫁できる口実だったりもする。
介護技術の獲得
適切な介護は、要介護者の機能的な自立を促進し、家族介護の負担と地域社会の福祉財源を軽減する。介護はだから技術であり事業である。従って、介護サービスとは「弱者救済」のボランティアやお手伝いではなく、ひとつのプロフェッションたるべき領域となる。
しかし、この介護技術がほとんど普及していない。NPOが地域の介護市場に登場するときに欠かせないものの中に、「介護の技術」があるだろうと、私は思う。ここで言う「介護技術」とは、おむつやシーツ交換の方法のことではなく、残された機能をつかって自立を促すことはもちろんのこと、人と人との関係を作り出し、そこから障害を持った高齢者に地域への参加を促すようなものとしての「介護技術」のことである。
脳卒中片マヒに限定すれば、ほとんどの人は自力で寝返りをうつことができ(だから褥そうはできない)、適正に誘導することができれば座位までは確保可能となる。座位が確保できれば口から食事ができ、おむつがはずれ、機械に頼らない入浴も可能となる。そして驚くことに、寝たきりを起こす基本的な身体介助の技術はPT(理学療法士)やOT(作業療法士)にとっては極めて基礎的な技術なのだという。
にもかかわらず、膨大な寝たきりが他ならぬ旧来の医学モデルの中から生み出されている。ほとんどの場合、寝たきりは起き上がることができるのだということが少しも地域には伝わっていない。
だとすれば、ここに介護を担う新しい勢力として登場可能な大きな空白が存在している。地域の住民やNPOが「介護技術」を身に付けることが、その存在基盤を飛躍的に強化する最短の道である。
しかし、ひるがえってみればNPOはそうした地域の要求にきちんと答えているのだろうか。むしろNPOにとっては、参加すること自体が目的であり活動の内容の吟味は二次的なことと考えられているようにも思える場合も多い。
NPOにとって必要なのは、目的や使命に基づいた自らの活動を評価する基準であり、絶えず能力を引き出すような固有の研修のプログラムである。そうした基準もまた介護の技術を抜きにしてはありえない。
地域政策
先に介護保険は「発展途上」の制度であると述べた。このことは逆に言えば、まだまだこの世界では創意と工夫の余地が大きく残されているということを示すものである。
例えばこういう問題がある。介護保険で積み残された最大の問題は家族介護の扱いである。この問題は保険料負担の増加と相まって今後大きな問題となるだろう。サービスの利用率の低さもまた介護者としての家族の評価の問題をつきつけざるを得ない。
しかし、現在の制度化においても、家族がNPOの一員として適正な介護報酬を受け取れる仕組みは簡単につくることができる。NPOの理事になればよいのだ。あるいは一人の利用者のためのNPO(マイNPO)が乱立してもよい。それでも要介護度によっては月額数十万円の事業規模を持ち、地域のNPOにとって格好の基盤を与えるはずである。
このように地域を見渡せば、様々な事業のアイデアがいくつも転がっている。介護保険に方針がないことがかえって様々な可能性を与えているのである。必要なことは、そうしたアイデアを地域社会の課題と重ね合わせ、まちづくりの新しいビジョンとして提案できるような政策形成能力と介護の技術の獲得なのである。
さとう よしお
株式会社日本生活介護
『顔が見える介護保険---NPOの介護事業戦略』光芒社の著者。詳しくは『協う』61号の書評参照。
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