2001年4月号
書評1
人間の回復に対する深い信頼
豊福裕二
京都大学大学院経済学研究科博士課程
『あふれた愛』
天童荒太著
集英社 1400円
幼児期に虐待された過去を持つ主人公達の悲劇を描き、ベストセラーとなった『永遠の仔』の著者が、その執筆中に浮かんだというモチーフを4つの短編にまとめたのが、本書『あふれた愛』である。前作と同様、何らかの理由で心に深い傷を負い、そのために日常生活を営むのが困難となってしまった人、あるいは社会の中で絶えず生きづらさ、息苦しさを感じてしまう人たちを描いた作品であるが、ミステリーとして事件性や悲劇性の強かった前作とは異なり、今回の作品は、むしろ彼らのありふれた日常が舞台となっている。
4つの短編には、育児ノイローゼから軽いうつ病になってしまう母親、幼少期の両親の離婚などが原因で十分な愛情を受けられず、そのまま成人してしまった、一般に「アダルト・チルドレン」と呼ばれるような女性、あるいは夫を突然失い、その死を受け止められず逆に罪の意識を背負ってしまった女性などが登場する。そして物語は、3作目の「やすらぎの香り」を除けば、そうした人たちの視点ではなく、すべて彼女らに思いを寄せる男性や夫など周りの人々の視点から描かれている。
しかし、物語は決して、彼らの愛情に支えられて彼女らが癒され、回復していくという単線的な展開にはならない。むしろ彼らは、愛する人が変わってしまったことにとまどい、いらだち、あるいは愛する人のことを想い、その一刻も早い回復を願うがゆえに、逆に相手を深く傷つけてしまうのである。おそらく著者は、これらの人々に必要なのは、決して性急な愛情ではなく、回復のための長い時間と、その回復を信じてねばり強く寄り添い、待つことのできる周りの人々の理解と一段深い愛情であるということを、われわれに問いかけているのであろう。精神科の病院で知り合った男女が結婚生活に踏み出すまでを、彼ら自身の視点から描いた「やすらぎの香り」には、そうした著者の人間の回復に対する信頼が強く感じられ、深い感動を覚えずにはいられなかった。
この作品に登場するケースのように、育児、離婚、事故などのほか、会社の倒産やリストラなど、我々が心のバランスを失ってしまうようなきっかけは、実は身近に存在している。そのような時、人々に回復をもたらすのは、長い時間と身近な人々の愛情、そしてそうした努力を支える社会全体の理解であろう。しかし、今の日本社会を顧みると、反対にあらゆる側面で余裕が失われつつあるように思えてならない。競争ばかりが強調され、弱い立場にある人々に対する思いやりが薄れつつあるように思われる今日にこそ、ぜひとも多くの人に読んで欲しい一冊である。
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