2001年2月号
特集


21世紀型生協のかたち

生協運動が非常に厳しい状況に直面している。このなかで、2000年5月から9月という短期間に、続けて出版された3冊の本(『生協は21世紀に生き残れるのか』大月書店、『協同組合のコーポレート・ガバナンス』家の光協会、『現代生協改革の展望』大月書店)から学べることは多くあるはずだ。これらを題材に実践的な立場で研究するため、2000年12月16日にくらしと協同の研究所主催で公開研究会が開催された。それぞれの本について、討論者(コメント)の意見とそれへの執筆者からの回答、その後討論という形で進められた。各討論者からは多くの問題提起があったが、今回はそのうち、討論者の意見と執筆者の回答の部分について紹介する。3冊の本が問題提起していることのすべてを取り扱えているわけではないので、ぜひとも3冊の本をお読みにいただくことを希望する。


『生協は21世紀に生き残れるのか』 大月書店、中川雄一郎編、2000年8月

欧米諸国とは異なる運営形態を続けて発展した日本の生協運動は、90年代初頭以降にかげりが見られ、さらには存立の危機に瀕するようになってきた。この原因を探り、21世紀を生きるためのオルタナティブを提示するのが本書の課題である。

第1章で「日本型生協モデル」の展開と終焉を指摘し、その上で国際協同組合連盟の1980年のレイドロー報告、1992年のベーク報告をふまえて「ステークホルダー論」の意義を検討している(中川雄一郎)。第2章は、ここ10年間のデータに基づいた生協の事業、組織および経営を分析している(堀越芳昭)。第3章は、生協が「消費者の協同」の組織としての日本型生協の限界を乗り越えて、なお前進していくためには、生協運動の機軸を「商品」から「組合員のくらし」に移していくことが必要であることが提示される(田中秀樹)。第4章では、生協は組合員のために組合員がコントロールするという考え方だけでは不十分であって、「多面的な利害関係者に囲まれた存在として」の生協、社会の中で生きる「公正な事業体」としての生協が求められる、と主張する(杉本貴志)。最後に第5章では、ノーベル経済学賞のアマーティア・センをふまえて、福祉社会の形成の上での「協同」を論じている(中川雄一郎)。


討論者:清水 隆(研究所事務局長)

「社会の声を聴く生協」は実践的には論理の飛躍

本書は、今の生協危機の問題の所在と打開の方向性について重要な提起をしている。それを押さえた上で、今日出席の杉本さん執筆による第4章について、いくつかの論点を出したい。

まず、「組合員の声を聴く」生協から「社会の声を聴く」生協へ、という提起である。

ここでは、「組合員の声を聴く」活動は、制度としては組合員組織であったはずの生協が、機能不全に陥っていることの現れであるとした。そして、いまや生協において普通のシステムとなっている「一言カード」が、ちばコープでは、購買だけでなく生活の様々な局面で協同を求める人たちが、最初に声を上げる装置として機能しているという点で一般のスーパーの「お客様カード」とは次元の違う話であるとした。また、『宮崎県民生協の道』では、「組合員の声を聴く」運動での到達を評価しながらも、徹底して組合員の声を聴いて実現することを生協の当然の前提として取り組むことに安住していてはならないとしている。組合員ニーズに応え続けるだけでは生協の主体性がなくなるのではないかと、少なからぬ生協関係者は疑問を抱いていることや「安くて安全」ならいいのかと、先進国の消費者が便利で快適な生活のために際限なくそのニーズを追い求め、途上国の犠牲を直視せず、「安くて安全」な食品輸入が行われている事例を挙げて、問題提起されている。そして、「組合員の声を聴く」生協から「社会の声を聴く生協」へ一歩前進することが求められているとしている。

私は、こうした指摘に共感しながらも、実践的には少し論理の飛躍があるように思う。問題は直面する生協危機にあって、生協運動の本質を押さえながら、一歩進んだ生協のあり方を、どのようなプロセスで、どういった形で生協が示していくのかにある。いきなり「社会の声を聴く」生協への飛躍でなく、「組合員の声を聴く」運動そのものを実践の現場から捉え直し、さらに深化させることが求められている。「社会の声を聴く」のは当然のことであるが、まず生協から何をどのように発信するか、である。

その点で、私は宮崎県民生協の「組合員の声を聴く活動」の土台にある組合員観、組織観に注目している。組合員一人ひとりを「未熟な消費者」としてみるのではなく、「自立した消費者」ととらえ、従来のリードする(生協)側の勝手な"思いの押しつけ"から各人を尊重する運動へと転換するとともに、自らの組織を、「育ちあう組織」と位置づけた。このように、生協が自らを「自立した消費者」どうしのつながりの組織として、再度深くとらえ直すことと、そこでの多様な「協働」の実践が、構成員の発展と運動の持続を可能にし、くらしや社会をめぐる問題の解決を社会的にも示していくことを可能にするのではないだろうか。

協同組合民主主義そのものの掘り下げを

次に協同組合民主主義とマルチ・ステークホルダー(Multi Stakeholder:多数の利害関係者)について論点を出したい。

本書では、民主主義が協同組合にとって、単に自分たちの組織にとっての統治形態の一つとして理解して良いのか、という疑問が提示され、ここを出発点として協同組合が「公正な事業体」をめざす中で、マルチ・ステークホルダー型のアプローチの必要性が導かれるとしている。また、大阪いずみ市民生協とイギリスCWS(協同卸売組合連合会、CO-OPブランドで商品を展開)の経験をもとに「民主主義がいつも正しい結論を出すとは限らない」という事例も示され、そこからマルチ・ステークホルダー的アプローチの必要性とコーポレート・ガバナンス(Governance:統治・監督)の問題が論じられている。

本書での指摘に基本的には同意するが、やはり協同組合民主主義自体の掘り下げが不十分であり、マルチ・ステークホルダーによる具体的な統治の形が十分語られていないと思う。

まず、協同組合民主主義については、代議制民主主義と三位一体の参加型民主主義が十分に徹底しているのかどうかという疑問がある。また、ガバナンスの問題として「主権者-代理人モデル」が「情報公開」や「説明責任」も含めて正しく機能しているかどうかという問題が、マルチ・ステークホルダー論に入る前にまずあるのではないかと思う。特に、大阪いずみ市民生協の場合、社会だけでなく、組合員に対しても、まともな「情報公開」や「説明責任」がなされていなかったことがあるのではないかと私は認識している。参加型民主主義についても、出資・運営・利用の三位一体の中で、どの程度実施され機能しているのか、また「民主主義こそ真に効率的である」という協同組合の「確信」が、実際はどの程度深まり、確信されているのかという点にも踏み込んだ検討がいるのでは、と思う。

第2点目のマルチ・ステークホルダー型生協とガバナンスについてだが、マルチ・ステークホルダーモデルによる具体的な統治の「形」が十分に記述されていないことに不満を感じる。この問題に関して論点を提示するなら、マルチ・ステークホルダーモデルによる協同組合のガバナンスを論じるとき、組合員主権に、ある種の制限を加えるかどうかが問題になる。本書で提示されている員外理事や監査システムと他のステークホルダーの牽制機能がどこに対して、どのような形で働くのかが明確にされていない。言い換えれば、さまざまなステークホルダーを、協同組合の直接の意思決定システムの内に置くのか、それとも単に「情報公開」や「説明責任」をもとに「意見を聞く対象」として位置付けるのかはっきりしていない。それを協同組合の直接意思決定システムの外に置く場合、ある種の牽制機能の有効性を否定しないが、その限界は明白だ。このように考えたとき、協同組合のガバナンスは、経営者支配に対する主権者―代理人モデルのガバナンスと、マルチ・ステークホルダーのガバナンスの複合的な形が意識されなければならないと考える。


執筆者:杉本貴志(関西大学助教授・研究所研究委員)

多面的な社会性なしに生協の21世紀はない

「社会の声を聴く」ということを前面に押し出したことに対し、飛躍が大きすぎるのではとの指摘があったが、私が言っているのは「21世紀の生協事業とガバナンス」ということで、2100年12月31日までは21世紀なのだから、100年後のことも考えてそう言ったわけだ(笑)。「組合員の声を聴く」ということを最優先しなければならないのに、それすら徹底していない生協がまだ数多くあるということをもちろん忘れるべきではない。しかし、それだけではお客様の声を聴くスーパーマーケットと差別化できるのだろうかという問題意識から、あえて挑発して、ちばコープ、宮崎県民生協、その他の固有名詞も出させていただいた。

「組合員の声を聴く活動」の中から、社会性を獲得していくこともできる。それを、マルチ・ステークホルダーつまり多面的な利害関係者vs組合員という形で考えると、2つのレベルでマルチ・ステークホルダーは考えられると思う。第1段階は現在、組合員の声を聴くとか、組合員主権、組合員は1人1票持っているとか言われているが、本当に組合員のあらゆる考え方を生協が吸収しているかというとそうではない。普通の組合員は、どのように組織のことが決まって、どのように運営されているのかはわからない。マルチ・ステークホルダーという場合でも、組合員の中にもいろいろな人がいる。非常に積極的に声をあげる人もいるし、「一言カード」を書く人もいるし、場合によっては総代になってやろうという人もいる。しかし、そうでない人もいるわけで、生協内部における内なるマルチ・ステークホルダーを追求することは大切である。そして第2段階では、それを生協の外にも徐々に広げていって、本当に多面的な社会性を持った生協にしていくことを考えていかなくてはならない。ただ、外部のステークホルダーの声を聴くというと、取引先あるいは金融資本の声を生協の意思決定機構の中に入れるのか、との批判もある。しかし、私は"マルチ"・ステークホルダーのことを言っているのであって、外部の"単一の"ステークホルダーを入れてこいと言っているわけではない。あらゆる利害関係者を入れれば、たとえ銀行が生協に横暴なことを言っても、自然とそうした声は批判され淘汰されていくはずだ。これが、マルチ・ステークホルダーモデルの考え方だ。

マルチ・ステークホルダーのモデル

具体的にマルチ・ステークホルダーの制度としてどのようなものがあるかと言うと、2つのレベルが考えられる。1つは、経営者がマルチ・ステークホルダー的な経営姿勢、組合員のことだけでなく社会のことも考える経営、を示していけばよいという考え方。もう1つは、意思決定機構あるいは生協の構造そのものをマルチ・ステークホルダー型に変える必要があって、経営者個人の経営姿勢や判断に任せてはおけないという考え方だ。ただ、後者については、まだかなり賛否両論がある段階だと思う。

そこで、どういうモデルがあるかというと、例えば現在の消費者協同組合ではなくて、地域ごとの食の協同組合という形で、食の生産者も消費者も、流通に携わる人々も1つの協同組合に集まっていくという形だ。そこまでいくと今の生協はそのままでは生き残れないと思うので私は書かなかったのだが、これは研究者が考えている21世紀の協同組合論だと思う。また、生協の国会は全部組合員で占められている。だったら、シャドウ・キャビネット(Shadow Cabinet:影の内閣、野党が政権を取ったときの閣僚候補で構成する)を作り、職員代表、取引先代表、農業生産者を何名かずつ影の理事会という形でだしてはどうかと考える。そこで、シャドウ・キャビネットvs正規キャビネットで何らかの有意義な論戦が行われ、真の民主主義が貫徹しているように、組合員主権を貫徹しながら、マルチ・ステークホルダーの意見を機関運営の中に生かしておくというやり方もあるのでは、と考えている。また、そうしていかねば、生協・協同組合は21世紀に生き残れないと考えている。


『協同組合のコーポレート・ガバナンス』 家の光協会、山本修、吉田忠、小池恒男編著、2000年9月

トップマネジメントをはじめ、役職員の人材を事業と経営の基本的な資源としている協同組合では、かねてから、経営者の能力やそのあり方が重要な問題として論じられてきた。しかし、この厳しい経営環境のなかでの経営危機を乗り越えるために、いま、新たな視角から経営者の問題を取り上げることが求められている。それは、優れた経営者を選びその能力をさらに発揮させ、また無能な経営者を排除しその腐敗を防いでいくような経営内部システムの確立を求め、経営者問題を考えていくことである。しかもそれは、組合員の立場に立ち、事業を通してその利益の最大化を図ることを目指しながら、その確立をおしすすめることでなければならない。

本書ではこの問題を中心に据え、農協と生協の現実をふまえ、かつ対比させながら、協同組合の基本的な経営構造と意志決定システムについての特質と問題点を平易、かつ具体的に明らかにしている。また、農協や生協のコーポレート・ガバナンスが日本型経営のそれと対比されており、問題分析の深化につながっているところにも特色が見られる。

全体は「日本企業のガバナンス問題と協同組合の特質」(青柳斉)、「法制度からみたコーポレート・ガバナンス」(瀬津孝)、「協同組合の経営者支配とコーポレート・ガバナンス」(吉田忠)、「協同組合における組合員の経営参加」(増田佳昭)、「協同組合における情報開示」(瀬津孝・高田理)「協同組合における職員の経営参加」(青柳斉)、「協同組合の連合組織におけるコーポレート・ガバナンス」(小池恒男)、「協同組合とステークホルダー-地域生協を中心に」(佐々木隆)、「大規模農協におけるコーポレート・ガバナンス」(高田理)、「巨大生協におけるコーポレート・ガバナンス-コープこうべを事例として」(山本修)という10章で構成され、執筆陣は農業経済・農協研究者が中心となっている。


討論者:若林靖永(京都大学助教授・研究所研究委員会幹事)

ガバナンスとマネジメントの区別と連関

近年の生協の不祥事や経営危機において、粉飾決算や私物化の問題はガバナンスの欠陥を示した。しかし、事業不振や経営悪化の問題はガバナンスの問題だけではなく、マネジメントの欠陥をも示している。ガバナンスの問題は重要であり、これはまず制度の問題として捉えることが必要であるが、同時にマネジメントの革新なしに生協の未来はない。

ガバナンスの問題を考える際に問題なのは、生協においてガバナンスの課題はいったい何かということだ。この点は、私自身よくわからない。プリンシパル・エージェンシー(Principal-Agency:依頼人が代理人の行動を監視できない状況下で代理人に約束を実行させる最適な形態を追求すること)の立場に立つのであれば、役員を監督し、気に入らなければ辞めさせるということが、ガバナンスの非常に狭い意味でのわかりやすい話だ。

ただ、またそこでわからなくなるのは、確かに理事会と総代会と組合員との関係をいうと、確かに組合員代表が総代で、理事会で意思決定をするというかたちに見える。そこの理事には組合員理事や学識理事もいるわけだが、日常の業務執行の代表理事というのが常勤理事としておかれているのが一般的だと思う。例えば、経営トップを監督するだけが組合員理事や学識理事の役割であれば、プリンシパル・エージェンシー的なのだが、そうではなくて生協の日常の業務執行に組合員理事がかかわって決めているとなったら、組合員が決めているから、プリンシパル・エージェンシーとしては組合員理事も組合員との関係で、自分はエージェンシーの立場になる。

なぜこういうことにこだわっているのかというと、生協法を読んでもわかるように、組合員のうちから役員を選挙すると書いてある。組合員が統治する構造になっているわけで、厳密には、プリンシパル・エージェンシーの枠組みにはなっていないとも読める。

ステークホルダーの制度化

次に、ステークホルダーに関しては、協同組合というのは組合員が形成するので、いろいろなものがあってもいい。地域社会に貢献するものもあれば、地域社会のニーズを無視する生協があってもいい。極論すれば、それぞれの生協が選ぶべきミッションの問題であって、どんどんいろんな協同組合がつくられるようであってほしいと思う(現実には、生協など協同組合の設立は、NPO法にもとづく設立よりもむずかしい)。従って、私は『生協は21世紀に生き残れるか』の杉本さんの提起は非常に面白いと受け止めている。私たちも商店街の活動やNPOに最近かかわり始めていて、やはり地域のマーケティング、地域の戦略を持ちたい、その場合協同できるいろいろな仕組みを作っていく必要があるという話で盛り上がる。だから例えば協同組合の一つの方向として、学識理事をステークホルダーとして、マルチ・ステークホルダーの一員として位置付けていくことも可能だろう。ただ、員外理事を置こうと思っても、5分の1以内と生協法28条第2項に書いてある。だから、どう頑張っても、過半数は取れないから、その力には限界がある。員外理事の枠をもっと増やして、総代の理事や選挙規定も少し変えて、員外総代とか員外理事の規定を作って、例えば地域の社会の中でコントロールされるということを、マネジメントでなく制度化してしまうというあり方も考えられる。

また、杉本さんはシャドーキャビネット制度について提案されたが、例えば地域の中で、組合員であろうがなかろうが、地域の商工会議所の中で議論して誰か出してもらうとか、直接、地域の中で地域枠というものを作ってお願いして来てもらうということを杉本さんは考えておられるのではないかと思う。そういう生協もあれば面白いと私は思う。

マネジメントの中心課題としてのミッション

最後に付け加えたいのは、マネジメントレベルの向上、つまり業務執行における意思決定を有効なものにすることが重要であるということだ。その際に組合員参加をどう位置付けたらいいのだろうか。民間企業は、消費者参加を得ずに、市場調査等を通じて消費者が満足するマーケティングの展開を心がけている。同様に、生協においても事業は常勤役員の意志決定と執行によって進められるということもある。職員組織との関係では、常勤役員のリーダーシップはきわめて重要である。それに対し、業務執行における意思決定に組合員が参加する場合もある。しかし、組合員が参加することで必ずしも業務意思決定がより良いものになるとは限らない。組合員が参加してもそれが業務執行、すなわち、職員の意識と行動の変革に結びつかなければ成果にはなかなかつながらない。このように、組合員の有効な関わり方の模索、組合員参加を受け止める職員組織のあり方の探求が、今、求められているのではないか。組合員理事も常勤理事も生き生きと地域の組合員や現場で働く職員の気づきや声、不満などを取り上げて、そこから業務執行の改善に速やかに結びつけるような運営が求められているのではないかと考えている。そのためにも生協が自らのミッションをどう構築するかが、マネジメントの中心課題であると思う。


執筆者:山本修(神戸大学名誉教授)

マネジメント(経営者)を選ぶのがガバナンスの課題

形式的に考えればマネジメントをどう選ぶのかということは理事会の仕事だと思っている。実際には理事会が有能な人材をどのようにリクルートできるのか、という難しい問題があるのだろうが、やはりこれはガバナンスの問題ではないかと思う。

次に、理事会とマネジメントとの関係がはっきりしないということについておっしゃることは、そのとおりだと思う。しかし、理事会は業務執行に関する意思決定を行うとされているものの、そこでの常勤理事(執行役員―マネジメント)と非常勤理事との役割は著しく異なっている。理事会審議事項を立案し提案するのは常勤理事会であるし、業務執行に関するかなりの事項は常勤理事会に委任されているし、実際に業務を執行するのは常勤理事である。したがって、非常勤理事(組合員理事)も常勤理事(マネジメント)と同じ意味でのエージェンシーであるとするのは若干の疑問を感ずる。あるいはエージェンシーにも二通りあるというべきか。

プリンシパル・エージェンシー論とステークホルダー論についてだが、私は協同組合におけるコーポレート・ガバナンスをほぼ組合員主権と同一視している。従って、ステークホルダーとされている地域社会、職員、取引先等が組合員と同じ統治権限をもつ組合の統治主体であるとは考えない。

ステークホルダーとされている職員、地域社会、取引先についてはそれぞれガバナンスに対する優先順位は大きく異なっている。学識経験者理事がステークホルダーをある程度代表できるとしても、それは主として地域社会との関連に限定され、職員の立場や取引先の立場を代表するといったことは難しい。ただ、地域社会との関連について、さまざまな方法でその参加を求めることに異存はない。

参加意識の向上と情報開示の徹底が重要

組合員の事業・運営に対する参加についての私の意見だが、総代会・運営委員会(コープ委員会)をはじめ、さまざまなインフォーマルなグループの役割が重要であると考える。問題は組合員の参加意識が弱体化していることと、経営に関する情報が十分開示されていないことである。参加意識を高めるための学習の強化、情報開示の徹底が必要だ。もちろん、職員と一緒になって考え実行していくことも重要だ。この点が徹底できれば、組合員参加が必ずしも業務意思決定をより良いものにしないとか、職員の意識と行動の変革に結びつかないといった若林さんの批判は当たらないのではないかと考える。


『現代生協改革の展望』 大月書店、21世紀生協理論研究会編 2000年5月

本書はCRI(協同組合総合研究所)で進められてきた共同研究を、中間総括としてとりまとめたものである。この共同研究においては、生協の現代的課題を、生協内部にとどめずより広い視野に立って、現代社会ないし現代資本主義の基本的な認識をもとにして解明し、同時に生協改革の展望を、組織・事業の改革に立ち入って解明することが重視されている。そしてそこでは、生協自体の内発的改革と、それがめざす改革の理念ないしアイデンティティをいかなるものにするのかが追求されている。また、21世紀に向けてめざすべき社会変革の中で生協が何をなしうるか、を明らかにしようとしている。

全体は6章で構成され、「協同の死と変容」(伊藤恭彦)、「新たな協同の再生」(小栗崇資)、「地域づくりと協同の主体形成」(山田定市)、「現代生協改革とその新しい地平」(美森悠)、「生協における協同の変化と可能性」(田中秀樹)、「双方向コミュニケーション型生協への模索」(小栗崇資)というように、「協同」の現実とあり方をめぐって鋭く検討がなされている。

結果として「新しい協同」の内実として参加型民主主義をいかに創造的に展開するかということが、現代民主主義の一翼を担う課題として明らかになってきていることは、本書の成果であろう。なお、「古い協同」と「新しい協同」の内実についての理解や、「同質的協同」から「異質者の協同」への変化という見方では、著者間で一致した見解は得られていない。しかし結果として、著者間で相互の主張を尊重した構成がとられたことが、かえって本書の特徴となっている。


討論者:久保建夫(研究所主任研究員)

「古い協同から新しい協同へ」

この本のテーマは、今日的な生協改革論議の背景に、単なる「経営危機」問題に止まらない構造問題や協同の主体たる組合員像の変容があり、したがって、その核心部分は協同の内容が「古い協同から新しい協同へ」、「同質者の協同から異質者の協同」への転換ということになっている。90年代の長期不況、需要の縮小、また生協内部の制度疲労があり、そうした構造問題と重なって、不祥事や経営危機などの諸様相として展開されているという認識のようだ。このような今日的テーマをコープかながわの事例をベースに、以下の3点が共通認識として挙げられている。

第一に、協同の内実の歴史的変化を踏まえて、現代社会における協同の必然性を明らかにすることである。

第二に、その主体を形成するものが大きく変わってきているという認識だ。同質者による古い協同の中からさしあたり異質者が「ムカツキ型の人間」として登場して、新しい協同の担い手になりつつあるということが本書のモチーフである。しかも、これは多様性を含む地域民主主義の担い手として可能性を持つということだ。ただこの地域問題と「自由な個」との関連が、本書の論者によってニュアンスが違うという感じがする。

第三に、生協をとりまく大状況であるグローバリズムやそれと連動する地域の変容、そうした対抗関係のなかで上の新しい主体の形成や協同のあり方がきわめて実践的な重要課題であると認識されている。

そうした共通認識の下とはいえ、新しい共同の戦略はどうあるべきか、そしてそれのベースをなす企業化された生協の現状をどう見るのかという点では、論者の中に2つ流れがあるように思われる。

また、バブル崩壊以後、未曾有な長期不況の中で、生協の経営危機、改革論議の渦中にありながら、この間生協陣営ではこの種の問題を正面からの分析や問題提起は少なかったように思われる。こうした「失われた10年」に、本書は、「同質者の協同」から「異質者の協同」をひっさげて実践的にも大胆な問題提起と討論を組織しようとされた努力、およびそうした研究に素材を提供された生協に対しては、深く敬意を表しなければならないが、おたずねしたいことがある。

一つは「古い協同」について、田中さんは、例えば班についても物販機能とコミュニティ機能の二重の捉え方をして、そのウエイトによって、協同の質が変わるように見ているが、本書に紹介されているデータを見ても、にわかに「新しい協同」に基調がシフトしかねるようにも思っている。

二つ目は、「自由な個人」が「新しい協同」の鍵だが、ヨーロッパでの「個」と、高度経済成長下で排出された一般に言われる日本的な「個」はだいぶ内容が違う。平等・友愛と一体のものとして自由(な個)が登場している歴史的条件を見ると、とりわけ自由(な個)だけをとりだすことの意味がよく分からない。

最後に、言葉の上では私的所有者である自由な個が平等な交換を前提に展開されているのが、形式的平等の内側ですすむ実質的不平等、つまり資本制蓄積の敵対的性格という視点からの自由な個や協同を見ると、どういうことがいえるのかが十分見えにくい。また、前提となっている自由な個の歴史規定的な把握や価値観、ライフスタイルなどが浮き彫りにされているかどうかも、はっきりつかめなかった。


執筆者:田中秀樹(広島大学教授・研究所研究委員)

「協同の戦略」が執筆者で違う

95~96年ごろから研究会の成果を本にまとめようということになり、その過程の中で執筆者によって考え方が違うということが明確化し、論文の中に争点を内在化しようということになった。私の論文では、最後の節がその部分にあたる。

執筆者間でどこが違うのかということだが、「協同の戦略」が違うと思っている。私の理解では、「物象化論的」協同の戦略と「主体形成論的」協同の戦略の違いだ。

具体的には、まず、「古い協同」の評価だが、古い協同といっても戦前の古い協同ではなく、戦後工業化段階の協同をどう評価するかということで、例えば伊藤恭彦先生(静岡大学)は、遅れた古い協同という評価をしておられる。それに対して私は、そうではなく、遅れた側面を持ちつつも新しい協同の実態がある、つまり選択性の要素が入ってきているのではないか、そんなに簡単に切り捨てないで欲しいと思っている。

次に、個と協同の関係をどうとらえるのかということだ。最近よく「強い個人と弱い個人」という言い方をされるが、「自由な個人」というのは私から見ると「強い個人」のことを言っているという思いがある。私は、確かに個の確立の契機は強まってきたが、アダルトチルドレンにみられるように、自己をありのままに受容、あるいは自己肯定できないような「弱い個人」が多く生まれており、「競争社会」あるいは「強者の社会」化のもとで、協同への願いも強まっているというのが現代社会ではないかと思う。「自由な個人」というとらえ方には、そうした協同の契機を見失ってしまう恐れを感じる。

これらが主な相違点だが、一番背景にあると違いは「物象化論」の理解だ。私は「物象化論」で生協をとらえたいと考えているが、「物象化論」の理解の違いが根底にあるように思う。違いは、物象化を進歩的と考えるかどうか、つまり資本主義が発展する中で個人が陶冶されていくという側面だけの物象化の理解はあまりにも客観的で主体性の契機がみえず、私には楽観論に思える。

伊藤さんは「私的に徹底」していく中で、「自由な陶冶された個人」が現れると言われるが、その時の協同の契機は何かということが見えない。協同の形も見えない。そこが私からの一番の論点提起で、本文の中でもそこを指摘した。自由な陶冶された個人というのは、私的個人で窓のない分子化されたバラバラの個人ではないか。協同という手をつなぐ窓が全くなくなってしまってくるのではないかと思う。

協同の拠点、協同空間としての生活

もう一つ、消費というのは「消尽する消費」と言われるように、私的で個人的な性格を持っている。私的で私事的性格の強い消費に対して、生活は、家事や育児、介護などの様々な活動による「人間存在の空間的形態」(間宮陽介)であり、社会空間や公共空間を創造する拠点となる。社会的諸関係の起点が生活の諸活動であり、ある場所における様々な活動やくらしが社会的諸関係の網の目として生活空間や社会空間を満たしていく。「くらしをつくる」「生活をふくらませる」ということは、豊かな他者関係、つまり協同関係で生活空間を満たしていくことではないかと思う。

私たちの生活は消費社会化のもとで消費に深く覆われつつあり、「生きていく場所」や「居場所」も流動化し、見えがたくなってはいるが、新たな出会いや協同の拠点をつくり、そこから協同空間を紡ぎだそうという営みも強まっているように思う。

「古い協同」の評価が違うと言ったが、戦後の工業化段階での協同というのは、確かに古い日本的な要素を持っていると思うが、伝統的な「いえ」、つまり「家業」にみられるような選択性のない帰属的な共同に比べると選択性の要素を含んでいる。つまり、選択性の要素を含みつつある協同だ。そういう違いは大事だと思っている。そうした協同は内部に新しい生活スタイルや文化的価値を生み出している。

熊沢誠さん(甲南大学教授)はある著書のなかで、「労働者の資本への統合もそうだが、抵抗もまた協同の場の形成を通じて行われる。私は、労働者の自立の営みには、労働者が『ともに働きともに闘うなじみのなかまがいる、自分もそこに属している』と実感できるような共同体に近い《社会》、労働社会が不可欠であると考える立場である」と書かれているが、それに私は共感する。個人の自立には、「なじみのなかま」や「自分もそこに属していると実感できるような」社会が必要であり、消費社会から「文化的に自己分離」(熊沢さんは「離陸」と表現されるが)した社会空間、協同空間を自前でつくる必要がある。そこでは当然しがらみも生まれるかもしれないが、それを古いと言って切り捨てることはできないのではないかと思っている。

(まとめ・文責 名和洋人)


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