2000年12月号
書評2


21世紀に希望はあるのか?

京都大学大学院経済学研究科修士課程
名和洋人


『希望の国のエクソダス』

村上 龍
文藝春秋 2000年7月


言葉の中の世界でしかなかった21世紀が現実のものとなろうとしている。このことが人々に心理的影響でも与えるのであろうか、近年今までの習慣・常識が成り立たなくなってきた。IT技術が爆発的に普及し、新たなネットワークが生まれ、大きな可能性が広がりつつある。一方で、バブル崩壊の後遺症がいまだ癒えない中での経済のグローバル化が、リストラ・倒産を多発させて我々の生活基盤を危うくし、場当たり的な国債乱発が我々の将来の選択肢を狭めている。高齢化が社会的問題として俎上にのぼると同時に教育の荒廃が深刻さを増し、世代間ギャップの拡大が未来に暗い影を投げかける。このような状況下で社会の行く末に関心を持ち、本書のような近未来小説に惹かれるのは私だけではないはずである。

著者は現代をめぐる希望と絶望を書き尽くすという動機で、2001~10年頃をターゲットとした本書を1998年から書き続けてきた。そこではなんと、この希望を実現していく主体を中学生たちと設定してストーリーを展開している。まず、彼らは集団登校拒否を行って既存の大人社会を拒絶し、その一部はASUNAROなる組織をつくり、自らのサバイバルをかけて行動していく。市場原理主義の環境下で、彼らはIT技術を駆使してネットワークを強化し、かなりの資金をつくるに至る。その後、円が通貨投機の標的にされたときに、ASUNAROはそこで重要な役を演じて世界の注目を集めるまでになる。しかし話はここでは終わらない。高校生になった彼らは市場の生み出す不均衡に気づき、新たな挑戦を行うのだ。ASUNAROは、衰退していく日本とは対照的な活力ある半独立国を北海道に作ってしまうのである。もっとも、この新たな試みの成否は本書の中では必ずしも明確なものとはなっていないが、この点を期待するのは著者に対して酷と思う。実際、著者は書き終えたときに言いようのない不安感を覚えたとも告白している。このことは、我々が21世紀初頭において超えなければならない巨大なハードルは一つだけではなく数多くある、ということを提示しているように思える。

このようなストーリー設定はあまりに非現実的であるとして、ただの小説と割り切ってしまうことも出来なくはない。しかし現在の日本経済の状況下で、未来あるべき若者によるそのような行動とその結末の可能性を完全に排除することもまた難しい。

本書は、現状に危機感を持つ者にとっては一気に読めてしまう本である。しかし、それを持たない人にこそ是非読んで欲しいというのが著者の本心のようだ。これは現代日本社会の多面における分裂が極めて差し迫った問題であるとの認識からくるものに違いない。事態が深刻さを増していることを教えてくれる一冊である。


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