2000年6月号
エッセイ
福井さん、 お忙しいですか! はい、 お陰様で。
中京大学生活協同組合
専務理事 福井 一徳
中京大学生協では、 卒業する組合員さんの出資金を、
郵便為替で保護者に郵送している。 卒業生三〇〇〇名を越えると、
出資金返還の申請を呼び掛けても徹底できるはずもない。
逆に 「ご卒業時に全額を返還しますから!」 と大胆に呼び掛ける意味でも保護者への郵送を位置付けている。
私が弱冠二四才で累積赤字を背負って名古屋市立大学生協の専務理事に就任した当時、
税務署に 「お宅の生協さんは赤字はありませんよ」
といわれ、 税務申告も更生通知への対応もまったくでたらめだったことが判った。
当時、 年間八〇〇〇万円の供給高で八〇〇万円に及ぶ赤字であった。
それから私の専務業が始まった。 資金繰りに苦労した。
支払いを予測し毎日の各店舗の供給データを金銭日計表に記入し、
供給予測のもと支払前日にはレジから万札を集め夜間金庫に入金した。
書籍の返品は入帳まで二ヶ月を要するので、 もっと前から店舗の棚の引き出しを開け、
店長に在庫の見通しを尋ね、 返品を指示したりもした。
昼間はパート欠員の食堂に入り皿洗いもした。
四〇分間ビニール前掛けでシンクでの手洗いは腰が痛い。
でも、 現場のパートさん達の大変さも有り難みも身に染みて覚えた。
食堂の事業の仕組みを知り、 その後の食堂事業の展開にも役だった。
専務の仕事は閉店後から始まった。 大変さから大学の近くに住んだ。
お陰で夜八時頃には、 まだ未就学の長女と二女がお弁当を持って妻と一緒に父親に会いに生協事務所にきたりもした。
専務時代に七年間、 病院の医者や看護婦さんに生協牛乳を毎朝七時から配達した。
それから保育園に子供を送って出勤の日課が続いた。
その甲斐もあって病院内でお正月商品の見本展示会ができたり、
めいきん生協の名古屋市立大学付属病院班もできた。
その当時の生協ファンの看護婦さん達がみんな婦長になって、
名古屋市立大学医学部地区 (川澄キャンパス)
での生協の発言力も増し、 そこの食堂施設や店舗実現に大きな力を発揮したと思う。
その縁というわけではないが、 長女は今看護婦をしている。
夕方保育園にお迎えにいったら、 つかまり立ちだった娘が一人で歩いた。
人間ってなんて素晴らしいんだろう。 あの感動は今でも鮮明だ。
その娘である。 人生は感動と成長の連続だ。 人にやらせる前にまず自分で。
何ごとにも前向きに挑戦する。 身を持って学んだ私の哲学だ。
そのお陰で、 中京大生協に移っても、 いつも仕事が増えている。
そんな中で絵画展は楽しかった。 一四〇万円の大枚をはたいて買った。
お陰で妻と絵画を観る趣味も共有した。 阪神大震災のときは職員全員で支援に出掛けた。
出資金返還のおり 「阪神大震災へのカンパのお願い」
を毎年行なっている。 毎年五〇万円近く集まる。
二万円全額をカンパしてくれる卒業生が六~七人もいる。
四年間お世話になりました、 とのメッセージに励まされる。
自分の大学生活をこう締め括れる大学にしたい。
それは、 人と人との結びつきの大切さであり、
人としての成長でもあり、 私が生協運動に携わっている意味でもある。