1999年12月号
視角

福祉社会へどう足を踏み出すか--平尾さんの批判から考える

川口 清史


「協う」 1998年12月号で、 京都生協で福祉のコーディネイターをされていた平尾良治さんから、 行政のパートナーシップについてのご批判をいただきました。 批判の論点は次の4点ではないかととらえています。 (1) 自助、 共助、 公助についてはまず公助が前提で、 足りないところを共助が批判と運動を伴いつつカバーするという位置づけであるべきだが、 それが不明確。 (2) 介護保険はきわめて問題のある制度であるにもかかわらずそれを前提にした生協の福祉活動が位置づけられている。 (3) 生協で福祉事業を進めるには人材が無いのではないか。 (4) 生協が今やるべきことは福祉政策を批判しつつ、 公的制度の届かない独自の分野で役割を果たすべき。
まず誤解をといておかなければいけません。 私は決して公助に先立って自助や共助があると考えているのではありません。 自助を前提にして足りないところをセイフティ・ネットとして公助で行うという新自由主義的考えはとりません。 健康で文化的な生活を最低限公的に保障していくという制度はやはり人類の到達点であると考えるからです。 とは言え、 これまでも何が最低限かを巡って論議されてきたように、 福祉とは生活の質ですから、 生活のどの領域のどこまでを公的に保障すべきかは一義的には決まりません。 生活の質を全体として確保し、 引き上げていくことを福祉と考えるなら、 そこに、 自助、 共助、 公助が組み合わされていかなければならないことは当然でしょう。 公助をより高い水準にしていかなければならないことは言うまでもありませんし、 「現状を一歩進めるための批判する目を持った運動として取り組んでこそ共助の意味がある」 というご指摘には全く同感します。
平尾さんと私の意見の違いの大きなところは、 介護保険のスタンスにあるのではないかと思われます。 平尾さんをはじめかなりの福祉研究者が介護保険を先導とする措置制度から保険制度への社会福祉体系の移行を厳しく批判されます。 介護保険に大きな問題があることは事実ですし、 その批判の大部分に私は賛成です。 しかし、 だからといって、 介護保険が現在の措置制度から後退するというとらえ方には納得しかねます。 現在の措置制度が、 理念がどうあれ、 現実には自助を前提にしたセイフティ・ネットでしかなかったことは明らかですし、 介護保険を否定される多くの福祉研究者も批判されてきたことです。 介護保険は、 制度としての欠陥を多くもちながらも、 介護の社会化を公的におこなうという意味で画期的な制度であると私は考えます。 それは、 今介護を家族の手においたままにしようとする旧保守主義者や、 セイフティ・ネットの水準に落としておくために財源を税に求めようとする新自由主義の両方から介護保険が攻撃されていることからも明らかだと思います。 もちろん社会化された介護を税金で賄うという方向性は考えられます。 しかし現在の政治状況の下では、 まず介護の社会化を公的制度として確立することが重要だと考えます。
平尾さんは生協は福祉政策の批判と制度の外での活動に限定すべきだと言われます。 これが一つの方向であることはその通りでしょう。 現実に福祉クラブ生協は介護保険事業は一部にとどめ、 大半の活動を制度が適用されない人々のニーズに応えるとしているそうです。 批判は重要ですし、 制度が適用されない人にこそ共助が求められているのもその通りです。 しかし、 同時に、 介護保険が施行され、 現実に多くの人がその制度の下にあるとき、 「批判の目」 を持たない社会福祉法人や医療法人、 営利会社にそれを任しておいてよいのかという問題もあります。 生協や協同組合、 NPOが公的福祉の担い手になることは、 福祉制度にとっても、 協同組合にとっても大きな意味を持つと私は考えます。 公的制度にとっては常に内部に批判者を抱えることになり、 また生協やNPOは社会システムの一環として社会的発言力を増すことにつながるでしょう。
最期に、 平尾さんは生協に福祉の専門家がいないことを指摘されています。 確かにそれは事実ですし、 生協はもっと努力する必要があります。 しかし、 人材ができてからといっていれば何もすすまない事も事実です。 コープこうべも、 生活クラブも、 ならコープも人材を育ててから特養の建設に取り組んだわけではありません。 しかし、 そこにはとてもユニークな人材が育ってきていると私は見ています。 この点でも、 これまでの福祉の殻を打ち破る人材の輩出が期待できるのではないでしょうか。

かわぐち きよふみ
立命館大学政策科学部教授
くらしと協同の研究所副所長



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