1999年12月号
人モノ地域
中国-大連への 「晶子と平和の旅」 雑感
あざみ 祥子 (京都生協組合員)
大連に行ってみよう
「あゝをとうとよ、 君を泣く、 君死にたまふことなかれ」
で始まる与謝野晶子の詩の全文を日本語、 中国語で彫り込んだ詩碑が、
6月25日中国大連の遼寧師範大学のキャンバスに建てられ、
その除幕式に私も縁あって参加させていただきました。
私自身は、 晶子に関して全くの門外漢です。
しかし、 あの奔放ともいえる情熱を吐露した歌の数々、
平和の危機が感じられるときには決まって鮮やかに蘇る
「君死に…」 の反戦詩としての強さなど、 私も人並みに興味とあこがれを持っていました。
さらに、 『青踏』 創刊号の1ページを飾った詩
『山の動く日』 は、 女性の自立や参画が世界の波となってうねりはじめている今、
またしてもひたひたと、 静かなしかし大きな力で私たちに迫ってくるようです。
「歌よみならひ候からには、 私どうぞ後の人に笑われぬ、
まことの心を歌ひおきたく候。 (晶子-ひらきぶみ)」
と言った晶子の生き方に触れてみたい。 すすめられるまま、
晶子三昧の旅もいいなあと思いました。
それともう一つ、 「中国大連の生協に、 毎日お母様とお買物に行ったの」
という友人のことばを懐かしく思い出しました。
たぶんこれは満鉄社員消費組合のことであろうと思われます。
満鉄社員消費組合は、 その名の通り満鉄沿線全部をその分配地域とし、
戦前の1939年 (昭和14年) の記述によると、 組合員数約6万、
家族を加えると16万を組織する一大消費団体でした。
当時の全満在住日本人の6分の1が利用していたと思われるもので、
その扱い高も家計の約半分を占めていたようです。
しかし、 残念ながら、 今回はその痕跡も尋ねる機会とはなりませんでした。
しかし、 そんなこんなで、 私もこの機会に大連という土地に立ってみたい、
直に肌で大連の街を実感しておきたいと思いました。
したがって、 ここに述べるのは、 与謝野晶子の話でも、
満鉄社員消費組合のことでもなく、 この旅で行きずりの旅行者である私がかいま見た、
中国大陸の子どもたちの生き生きとした笑顔と、
男女共同参画の今日の姿なのです。
この暑さは京都も顔負け
直に肌で実感してみたいなどと思わなければよかったと悔やむくらい、
6月下旬の大連の町はサウナのような暑さでした。
今日は特別です、 ということでしたが、 ほんとうでしょうか、
滞在中ずっとこんな調子でしたもの。 除幕式当日も、
見上げると雲一つない青空が広がり太陽がじりじりと照りつけています。
その炎天下に、 私たちは座って帽子など頭に載せていましたが、
遼寧師範大学の学生たちは2時間近くずっと立っていました。
しかし、 倒れた学生もいなかったようですから、
たぶんこれが大連の日常なのでしょう。
1928年 (昭和3年)、 晶子が50才の時、 夫鉄幹と共に満鉄の招待で満鉄旅行をしたときに泊まったという大和ホテル-現在の大連賓館に、
私たちも泊まりました。 これは現在もホテルであると共に雑居オフィスビルにもなっているようです。
だいたいは往時のままの典型的な洋風建物で、
大理石を使った大きな柱やゆるやかな広い階段があり、
2階の私たちの部屋は天井が高く扉がどっしりと重く、
大きなカーテンボックスが立派でした。 壁紙は真新しく張り替えられ、
バス、 トイレ、 空調も完備されていましたので、
気持ちよく滞在が楽しめました。 大連賓館は、
大連市の中心の大広場-中山広場の正面にあります。
その中山広場は市民の憩いの場です。 早朝はおおぜいの市民が太極拳などをして壮観だということでしたが私は寝坊をしていてついに見られませんでした。
しかし夕方には若者たち、 家族連れが集まってきて超満員。
夜遅くまで賑わっています。 別に屋台や大道芸があるわけでもないのにキャーキャー騒いでいるのです。
のぞいてみると、 ジャンケン遊びのような、 ハンカチ落としのようなもの、
単純なゲームで健全なる夜遊びといった感じです。
たぶん家にいても暑いので夕涼みに出かけてきたということではないでしょうか。
とにかく今年の京都の暑さなんてものではなかったような気がします。
のびやかな少年、 少女たち
大連に到着した最初の日、 夕方の自由時間を利用して市内の大連実験小学校の周辺を散策しました。
実験小学校は、 ちょうど授業が終わったところらしく、
どっと子供たちが校舎から駆けだしてきました。
なんとカラフルな服装、 鞄も思い思いのキャラクターものです。
女の子たちは頭髪をきれいに結い上げてかわいいリボンやピンでとめています。
お母さんたちが迎えにでていました。 聞くとそのまま塾に連れていくとのことです。
ちょっと声をかけると子供たちが興味深々といった様子でわっと集まってきました。
どの子もなんてきれいな目をしているのでしょう。
背も高く、 足がすらりと伸びています。 5年生という女の子が早口の英語で語りかけてきて私などはたじたじとなってしまいました。
英語は1年生から教えられているそうです。 彼女の教科書はよく読み込まれてよれよれ、
びっしりと書き込みされていて真っ黒でした。
「よく勉強しているのね」 と言うと 「優等になったらリボンがもらえるの」
と首に巻いた赤いスカーフをうれしそうに見せてくれました。
3年生ぐらいにもらうと優等生らしい。 しかし、
4年5年では大方の子がこのスカーフを結ぶようになるそうです。
中国は強力な一人っ子政策がとられてきました。
大事な大事な一人っ子ですから、 あまやかされて駄目になるという指摘もありますが、
今日ここで見る子供たちはなんて素直にいきいきと育っていることでしょう。
大連のお父さんは料理がお上手
中国は男女共同参画の進んだ社会だと思いました。
共働きは当たり前で 「働かない女性はちょっとおかしい」
のだと言います。 遼寧大学の女性の先生も1年間小さい子供を母親に預けて、
日本に留学したそうです。 大学の中に住宅があり、
小学校や保育園があり、 保育園に子供を1週間預けっぱなしもできるということですから、
女性が働く条件は社会的に保証されているわけです。
私たちは大連市経済所副所長の王さん宅を訪問しました。
もちろん共働きです。 緑豊かな丘陵を切り開いたニュータウンの6階建て住宅の4階です。
入ったところがダイニング兼応接室、 右に夫婦の寝室、
子供部屋、 左にキッチンと書斎があり、 洋式のトイレ、
洗濯機をおいた浴室などがありコンパクトながら明るい清潔なマンションでした。
中国でもこのような持ち家マンションが普及しつつあるようです。
猛勉強しなければ入れないという難しい高校へ、
つい先日合格したばかりという息子さんも、 いとこと今回通訳してくれたいとこの友達と一緒にとても礼儀正しく私たちを歓迎してくれました。
ここで私たちは、 一緒に餃子を作りました。
ところがお父さんの、 皮を伸ばしたり、 あんを包み込む手つきのなんと鮮やかな。
「いつもやっていますから」 とのことでした。
昼食はすべてご夫妻手作りの物です。 極め付きはお父さんがさばいたという赤貝の刺し身、
この暑い大連でよく素人の生物を食べたね、 と言う人もいましたが、
とてもおいしく、 私は大満足でした。 とにかく、
料理をはじめ家事全般にお父さんも関わるようで、
男女共同参画の見本を見せていただいたように思います。
大連はやはり国際都市
もともと大連はかつて東洋一と言われた貿易港のあるところです。
最近は日本経済のあおりを受けて不況だと言います。
しかし、 王さんのところで出会った少年たちも、
そして遼寧大学で出会った学生たちも、 異口同音に、
日本語をマスターして日本に留学したいと語りました。
私が出会ったのは恵まれた階層の子供たちかもしれません。
しかしその強く訴えかける若者の輝くような目、
りんとした美しい顔が今も私の脳裏を離れません。
日本は、 日本人である私たちはこの子どもたちの期待に応えていけるのでしょうか。
もっといろんな世界にきらきらとその目を向けているようにも思えました。
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