1999年8月号
エッセイ

銀色の泥濘

名古屋勤労市民生活協同組合理事長

高橋 正


私の育った街は、 東京の東の外れで、 町並みを一歩出るとあたりは田や畑が広がり、 小川のある田園地帯だった。 魚を捕ったり、 泳いだり、 気の小さいくせに腕白だった私には遊び場に事欠かなかった。
腕白なわりにはあまり丈夫ではなく、 「貧乏人の子は丈夫なはずなのに、 この子ばかりは…」 が親父の口癖だった。 案の定、 高校を終える頃に結核に罹り、 自宅で療養することとなった。 小説だけは手当たり次第に読んだ。 そのうち誘われて近所の教会で放課後の子供たちの面倒を見ることになった。 このあたりは町工場も多く両親共働きの家庭が結構あった。 健康のこともあってわずかな期間でやめたが、 牧師さんから一冊の本を戴いた。 表紙に 『銀色の泥濘 (でいねい)』 とあった。
しばらく経ったある夕、 その教会で賀川さんの講演会があると言うので出かけてみた。 話の内容はほとんど覚えていない。 講演のあと 「神戸で活動しながら病気を治した」、 「それくらいなら大学へ行ける、 勉強しなさい」 と言われた。 そんな事もあって、 キリスト教系の大学に学ぶことになった。 賀川さんの講義は開かれてなかったが、 ある年、 夜間の集中講義が開かれたので傍聴することにした。 「協同組合論」 だったと思う。
教壇の賀川さんは大きく、 精気がほとばしるようで、 私には一種の威圧すら感じられた。 白墨を使わず、 半畳ほどの白紙に賀川さんは豊かな筆勢で、 墨痕鮮やかに書いていく。 余白がなくなると、 横に直立している職員がベリっと剥がして下へ置く。 と、 数人が駆け寄り我先にとそれを取り合う。 その情景に気圧されてしまい、 場違いなところに来てしまったと、 体を硬くしてひたすら講義の終わるのを待った。 だから講義の内容は覚えていない。
その頃、 賀川さんがノーベル平和賞にノミネートされたとの噂があった。 期待していたが実現しなかった。 それから二十数年後、 ある神学者と話をする機会があったとき、 ふとこの事を思いだして話題にしたところ、 ノミネートされたのは確からしいが、 大戦中日本政府の戦争政策を容認したことが問題となって、 受賞に至らなかったのではなかろうかと言われた。
あの愛と平和への揺るぎ無い信念と鋼のような意志を持った賀川さんにしてなおそうせざるを得なかったところに、 戦時社会の異常さの一端を伺い知る思いがする。 いま周辺有事関連法が制定され、 複数の政党が国旗・国歌の法制化や憲法改定にむけた検討を公然と口にし始めた。 かっての道へ戻ってはならない。 私は賀川さんのようには強くない。 だからそうならないうちに早くこの動きを押し止めなくてはと思う。 何色であれ新たな泥濘を生み出さないために。




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