1998年12月号
特集

自分の仕事の主人公になるために


生協労働の意味を主体的に問直そう

いま生協は経営の危機・信頼の危機で大きく揺れている。 日本社会の綻びが背景にあるとはいえ、 協同組合自身の固有の問題状況も否定できない。 21世紀への生協再生にむけて危機を克服していくには、 「人」 の組織だといわれる生協において、 生協運動を主要に担っている職員がキーとなる。 職員のパワーアップと生協労働へのモチベーションを構築しなければならない。 しかし、 生協労働や仕事のあり方の転換は、 生協そのものの根源的な転換と同時進行でなければありえないだろう。 組合員の視点からみた職員問題を考えてみたい。

いくつかの問題
組合員にとって共同購入配達職員や店舗で出会う職員は、 イコール 「生協」 そのものである。 生協という組織の理念を体得し、 日々実践している人間であり、 「生活」 を協同する生協の職員だから、 生活のさまざまな専門的な知識を備えていて、 そのうえ生協は社会変革運動だから、 社会問題を組合員にわかりやすく読み解いてくれると期待している。 こうした職員は最近はほんのひとにぎりになった。
最近の生協職員は、 生協労連の毎年の調査によると 「展望がないが働く」 職員がここ4年間で正規職員は30.8%から37.8%へ、 パート職員は34.3%から47.5%へ、 いずれも増加している。 また、 就職の動機は将来性と労働条件がトップにきていて、 「生協運動に共感した」 という回答は、 サミット株式会社 (1963年創立、 資本金39億円のスーパー) の社員の就職動機である 「なによりも流通業に関心があった」 という回答比率よりも低い。 生協総研 「生協労働を考える」 プロジェクトの座長兵藤さん (埼玉大学学長) は事業体を支えるエモーションの構築という点で生協は出発点ですでに遅れているのかもしれないという (「第8回全国研究集会 生協における仕事のあり方をさぐる――組合員と共につくる事業めざして (生協総研主催、 9月25~26日、 於東京)」)。
生協における働きがいやモチベーションはどのようにつくられているのか、 仕事のやり方についての職場内での民主的な議論はあるのか、 職員集団としての協同の力の形成はされているのか、 労組はどのように職員問題に取り組んでいるのか、 組合員の力はどのように反映されているのか。 今秋開催された3つの集会 「第8回全国研究集会 生協における仕事のあり方をさぐる」 (前出)、 「生協労連パート部会第4回定期総会 (10月24~25日、 於京都)」、 「いま協同を問う'98全国集会――21世紀共生社会への提案 人と人とのむすびつき 地域・くらし・仕事の再生へ (11月7~8日、 於広島)」 を素材に考える。

すぐれた標準化は仕事の満足感を阻害しない
生協総研は数年来「生協労働を考える」というテーマを追求してきている。 今年はみやぎ生協、 ちばコープ、 サミットの3事業体の職員に実施したアンケート調査を中心に議論された。
サミットは本部と現場 (店舗) との関係に 「作と演」 という考え方を導入し、 みやぎ生協もそれを学んで取り入れている。 「作と演」 というのは、 作曲家と演奏家の関係のように、 本部と店舗は指示命令の上下関係ではなく、 お互いに対等な関係にたって、 本部が 「作曲」 したものを、 店舗はいかに 「演奏」 するかであり、 店舗の仕事は十分に創造的でなければならないという考え方である。
店舗における標準化の浸透度合いとそれが職員の働きがいにおよぼす影響、 つまり 「仕事が標準化されると退屈で非人間的な単純労働になり、 労働意欲の後退につながるのか」 という問題意識から、 アンケートが実施された。
調査結果では、 サミットがすぐれた標準化システムをつくりあげており、 単純労働ではあるが時間効率が高く、 余った時間で判断業務がやりやすく、 仕事に対する満足感が高い。 つまり、 標準化は労働意欲の減退につながらず、 むしろきっちり組み立てられた標準化システムは働く人にゆとりをあたえ、 プラスに働く。 標準化度が高いシステムをみごとにつくりあげているサミットに比べて、 生協は標準化度が低いという結果であった。

戦力化の異なるパートも働きがいは変わらない
調査プロジェクトの一員木本喜美子さん (一橋大学教授) は、 以下のように分析する。
サミットのオペレーションシステムは正規男性従業員、 とりわけ店長・副店長に非常に有効に機能していて、 生協職員よりも働きがいが高い。 「生協らしさ」 というキーワードにとらわれた生協労働論はまちがいではないか。
しかし、 ジェンダー視点からいうと、 サミットの女性正規職員はレジ・カウンター担当という役割に集中的に投入され、 単調感とストレスがきわめて高い。 つまり女性正規・パート職員の単純労働によって正規男性職員の労働が支えられているのである。
一方、 みやぎ生協は男女正規職員・パートが相互に入れ込むような形で職務が配置され、 パート職員も高い習熟度と責任を伴う職務にくいこんでいて、 職掌範囲がきわめて広い。 80年代以降第3次産業でのパート比率が高まり、 生協陣営もコスト面からなりゆき的にパート職員の構成比率を高めてきている。 最近は 「パートの戦力化」 がいわれ、 正規職員の職務に食い込む形がすすんでいる。 しかし、 標準化が不十分な労働にパート職員を導入すると、 指示をだす正規男性職員の負担が高くなる。 その点、 サミットは徹底的に標準化された仕事に投入し、 パート職員の戦力化の効果を高めている。
このように 「パートの戦力化」 のパターンが違うみやぎ生協とサミットだが、 パート自身の仕事意識 (単調感、 高密度感、 やる気、 達成感、 ストレス) は不思議なくらいよく似た傾向を示した。 ただ、 みやぎ生協のパート職員は正規職員の指導を受けず自由裁量でやっており、 仕事の達成感はあるが非常に忙しく時間内に仕事が終わらないが、 サミットは仕事の達成感もあり成長度をはかることもでき、 一定時間だけ働き、 帰宅してからの家庭や地域での生活を大事に自分の生活に軸足をおいたライフスタイルをとっている、 という違いはあったと。

自由裁量度が働きがいを高める
ちばコープはみやぎ生協やサミットに比べて店舗職員数が圧倒的に少ないが、 調査の結果では、 本部の指示より店長の指示で動く、 個人に任されている部分が多い、 身近のミーティングが仕事に役立っている、 インフォーマルな関係での参加意識が高いなどが特徴としてでた。 共同購入部門もふくめた全職員の特徴としては、 「仕事の裁量の余地が大きい」 「職場のコミュニケーションが仕事に役立つ」 「組合員の声が多く伝わってくる」 という項目と 「仕事の達成感」 との相関が高かった。 生協労連の調査では、 ちばコープの職員は 「展望があり、 働き続ける」 という回答比率が非常に高い。 今回の調査から、 職員の自由裁量度が高いことが仕事の満足感につながっていると評価された。
兵藤さんは次のように総括する。 「ニーズに応える力量は生協はスーパーより遅れている。 現場職員のパワーアップが急がれる。 働く充足感は他人の役に立っている、 他人が認知してくれることである。 働きがいを感じることのできる関係性をつくらねばならない。 トップダウンのオペレーションシステムでは限界がある。 現場の創意工夫を広げ、 仕事に生かすシステムをつくらねばならない。 生協らしい仕事という理念を強調するだけでは解決しない」。

組合員との関係のなかで職員は変わる
生協総研全国研究集会は標準化問題が中心であり、 「組合員と共につくる事業めざして」 に関してはコープこうべ 「組合員参加の商品開発」 ・さいたまコープ 「店舗における組合員参加の業態改革委員会活動」 の2報告みであり、 議論は深まらなかった。
さいたまコープ店舗事業本部長小林新治さんの報告は、 94年上半期の赤字という事態から発足した業態改革委員会活動のなかで、 いかに組合員と職員の意識にズレがあるかが明らかになったという。 「店舗で赤字を出しているのに職員にはたいへんだという自覚がない。 生協で働いているから良いことをしていると思っているけれど、 赤字をだすなんてとんでもない。 それを自分のせいだと思わない。 店長が悪い、 本部が悪い、 あげくのはてに世の中が悪いといって、 生協職員には緊張感がない」 「どうしてスーパーは消費者参加がなくてもいい商品ができて、 いいサービスができるのに、 生協は組合員参加があってもこのレベルなの。 もっとプロになってよ」 「生協らしさを一流でない言い訳に使わないでください」。 こういった組合員の厳しい声にさらされ、 職員は意識を変えざるを得なくなってきている。 商品や売り場はお金をかければ変わるが、 職員はお金をかけても変わらない。 仕事がおもしろくなくて労働条件を変えても、 何も変わらない。 仕事が楽しい条件をつくるためにいま悪戦苦闘していると。
組合員の声に対峙するなかで職員が変わろうとするさいたまコープの報告はインパクトがあった。 職員が生協らしいという理念にとらわれ、 かなしばりにあっている姿はどの生協にも共通すると思われる。
一方、 生協労連パート部会分散会での議論は、 さいたまコープの別の側面を示していた。 さいたまコープでは元旦営業をめぐって理事会と労組が話しあったが、 正規労組は承認し、 パート労組が反対するなかで、 97年元旦は正規職員のみで営業された。 「元旦くらいは休みたいね」 というパート職員の願いと、 元旦も営業しないと組合員はスーパーに行くという理事会の思いが対立した。 これについてちばコープのパート労組から、 昨年正月3日の営業に関して、 「私たちも3日にはヨーカ堂へ行ったわね」 と、 自分たちのくらしをみつめるところから出発したという報告があった。

これからの社会・これからの生協を議論するなかで
かながわ生協労組パート部会長の八谷真智子さんに、 いま生協がかかえている課題について聞いた。
生協のいまの問題は 「人」 である。 トップ、 正規職員、 パート職員、 組合員それぞれに課題がある。 トップには過大な投資を安易に決定してきたなど、 経営力量の問題がある。 正規職員にはパート職員・組合員と共に仕事をする意識がどれだけあるのかという点に問題がある。 生協が企業化の道をたどる過程で、 生協運動を体験する機会が少なく、 生協職員として育てられてこなかったことが大きいだろう。
パート職員は戦力化という方向で効率を追求されているが、 標準化などシステムが確立していないと簡単に効率があがるものではなく、 むしろ非効率が生まれる。 パート職員はそれぞれの価値観で、 時間だけ働いてあとは家庭や地域でという人もいるし、 教育をうけてキャリアでいきたいという人もいる。 それぞれの立場で能力をもったパートを正当に評価し生かす道を、 理事も正規職員も真剣に探るべきである。 そのうえアルバイト、 派遣、 委託とかぎりなく広げる政策がすすんでいる。 協力して仕事をする職員集団をつくりあげる視点はあるのだろうか。
同じ労働者という仲間として労組は組合員ともっと話しあい手をつなぐ必要があるが、 見えない壁があるようでうまく通じ合えないことがもどかしい。 共感を得られるような場をつくりたいが、 表面的にはまずぶつかってしまうことがしんどい。 構えてしまって、 もう一歩が踏み出せないでいる。
生協への信頼で事業を支える組合員をつくり、 組合員と手を結んで、 次の世代に自分たちの求める社会をつくるために生協を育てていく明確な方向をつくりださねばならない。 このことは、 生協の構成員として組合員と職員がともに議論しなければならない。 21世紀にどんな社会をつくり、 そのなかのひとつの手段として生協はどうあるべきか、 そこでどういう働き方をしたいのかが問われている、 と言う。

協同組合の労働は雇用労働であっていいのか
永戸祐三さん (日本労働者協同組合連合会理事長) は、 いま 「協同」 を問う'98全国集会の分科会 「21世紀の協同組合をさぐる」 で次のような報告をし、 参加者に強い刺激をあたえた。
暴走する資本主義は21世紀のそう遅くない時期に破綻を来すだろう。 資本主義自身がどう改造され、 どう克服されるかは定かではないが、 協同組合の価値が争う局面がくるのではないかと考えている。
いま協同組合は20世紀型組織になってきている。 他との違いをきわだたせることによって組織内の結束力を強くすることが20世紀型組織であった。 21世紀型組織は協同という本質にかえり、 緩やかに結びついているが、 課題によってはある部分が強く結束するという柔軟な組織構造をもち、 誰でも自由に参加できる重層的な構造にならなければならない。 塀の高さ、 塀の強さによって組織の強靭さがはかられるという時代ではなくなるだろう。
いま協同組合が雇用労働をあたりまえのこととして常態化していることが、 はたして正常なのだろうか。 雇用労働は非人間的側面を多く含む労働形態である。 やり方によっては人間的になりうるといえるのかと問いたい。 協同が社会の主要な面になったとき、 雇用労働は中心として存在するのか。
労協は雇用失業問題を動機として生まれ、 自らの労働のあり方と、 労働を通じて社会に貢献し、 その労働が自らの発達にとって有効な内容と方向性をもつということで、 労働を組み立てることにこだわり続けてきた。 労協のいう労働とは協同労働である。 生活と地域に役立つ仕事を起こすことが労協の事業観である。 生活そのものから出発し、 生活にかえる。 地域そのものに目を向け、 地域そのものから仕事を起こし、 その仕事が地域にかえっていく。 協同組合はこうした労働でなければならない、 と。

熾烈な競争から労働を解放する公的共同討議
近代の労働観』(岩波新書、 1998年) で今村仁司さん (東京経済大学教授) は書いている。 「近代以降、 労働には喜びが内在し、 働くことが人間の本質であると考えられてきた。 しかし、 労働の喜びとは他者から承認されたいという欲望が充足されるときである。 承認をもとめる欲望は人間を熾烈な競争へと駆り立てる」。 そして労働観の歴史的検討をとおして次のように問題提起をしている。
南太平洋にあるニューブリテン島で畑作と園芸をするマエンゲの社会では、 仕事の達成度は 「仕事の審美的成就」 と 「仕事の慎重な運び」 で評価される。 1年の終わりの祝祭空間のなかで率先して自分の仕事の評価を受ける。 結果のみならず、 結果を生み出す細部の手続きまで評価の対象になる。 仕事の進行中にも村の全員が暇をみつけて基準に照らしての 「価値討議」 を日々実行し、 1年の終わりには互いに総括的価値討議をする。 日常の耕作仕事の生活空間がそのまま万人が参加する討議の場所である。 語り合い討論することが仕事のプロセスと生活のなかにしっかりと組み込まれている。 言語での討議、 これは原初的な議会である。 外部からは 「おしゃべり」 に見えるが、 当事者たちには討議によって人格の評価が決まる緊張に満ちた討論集会である。 日常生活と密着した価値討議であり、 価値討議の公共的空間が生活世界から分離していない。 他者による承認行為は私的と公的に分裂せず、 公的承認によって統一される。 自尊心・虚栄心は公共的価値討議によって公共のための努力へと転換させられ、 個々人は公的人格へと構成される。 仕事の達成度を評価する討議を通して、 公共の事物を運営しているのである。
人類の歴史は労働時間の短縮にむかっている。 こうして生まれた自由な時間は、 公的空間を創造し、 その空間のなかで社会生活の歴史と現実を思考し、 より良き生活の構築を共同討議することへとふり向けられねばならない。 しかも労働現場のなかでこそ公的討議空間をつくるべきである。 職業人 (労働者) としてではなく、 「公的な人格」 として相互に対等な資格で討議をする。 制度に限定されない、 見えざる討議空間をつねに創造し続けねばならない、 と。

生協職員自らの主体的転換をもとめたい
生協の再生は職員が変わらなければありえないと、 強く思う。 生協総研の議論は働かせ方の議論であった。 職員自らが自分の仕事の目的を自覚し、 客観的に成果を凝視するなかから仕事の変革をし、 仕事の主人公になるという、 働き方の議論をまきおこすべきである。
ある自治体で、 いわれある古木を切り倒し、 住民から抗議の声があがったことがあった。 木を切る作業をした人間は上層部で決められたことを指示命令により実行しただけであろうが、 木を切ることによる心の痛みはなかったのであろうか。 どんな理不尽なことも実際に手を下す人間のところでの自覚により、 止めることができる。 生活のために働く労働者が増加する社会状況で、 これは歯の浮く理想論に過ぎないのだろうか。
われわれは、 協同という言葉に大きな幻想を抱きすぎていないか。 1人で泳げない人間が2人集まっても、 泳げない。 生協労働者一人ひとりの主体性を強くもとめたい。



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