1998年8月号
くらし発見の旅
フェアトレード運動のバナナ交易
生産地における 「構造的暴力」 に目をむけた産直
当研究所では公開フォーラム 「アジアの人々とくらし」
を2回開催した。 今月号と次号で要約を報告する。
今回は株式会社オルター・トレード・ジャパン代表取締役堀田正彦さんの、 バナナのフェアトレード運動に関する講演を掲載する。
詳細な報告書は追って発行の予定である。
「総合栄養食品」 といわれるバナナは今日本で最もポピュラーな果物のひとつである。
日本に輸入されているバナナはほとんどフィリピン産であるが、
日本・フィリピン間のバナナ交易には大きく2つの形態がある。
この2つの交易形態の違いは、 持続可能な農業生産と安全な食糧供給という課題にとりくむ生協にとって、
きわめて大きな意味をもっているのではないだろうか。
今回われわれは堀田正彦さんの講演を聞き、 そのように考えた。
日本――フィリピン間バナナ貿易の支配的構造
日本で消費されるフィリピン産バナナの大部分は、
ドールやデルモンテ、 チキータといったアメリカの多国籍アグリビジネスが経営する大規模プランテーションで生産されている。
たとえばドールは、 ミンダナオ島で約1万2000ヘクタールのバナナ農園を経営している。
単一作物同一品種の典型的なモノ・クロッピングにおいては、
多数の低賃金労働者により人手や空中散布により農薬・肥料が大量に投入される。
農園にはまた、 パッキング工場や集荷用道路網など、
効率的な運搬・処理のための近代的な設備が整う。
こうして大量生産されたバナナは専用の港湾設備や海運機能を通じて輸出される
(ちなみにこの社会資本設備の建設には日本のODAが貢献してきた。
詳細は次号報告)。 日本に輸入されたバナナは、
提携関係にある日本総合商社 (ドールの場合は伊藤忠)
を介してやはり提携先の大規模小売店に直接卸される。
フィリピン――日本間のバナナ貿易は、 これら数社の多国籍企業によるコントロール下での大量生産・大量流通が支配的である。
植民地支配と過酷な労働のサトウキビ
アグリビジネスの統合下で展開する多投型大量生産・大量流通のバナナ産業の一方で、
ネグロス島に住む貧困層小農民により自然循環型農法で生産され、
草の根レベルで交易されるバナナがある。
ネグロスと日本の間で無農薬バナナの草の根交易に携わるのは
(株) オルター・トレード・ジャパン (ATJ)
である。 ATJは生協連合グリーンコープ、 生活クラブ生協、
首都圏コープ事業連合など生協グループと、 日本ネグロスキャンペーン委員会をはじめとする市民組織と個人の出資によって1989年に設立された、
市民資本による株式会社である。 ATJ設立のきっかけは、
砂糖の国際価格が前年の3分の1に大暴落した1986年に、
日本ネグロスキャンペーン委員会なる市民団体が、
サトウキビ労働者の自立支援を訴えて国際援助をはじめたところにある。
ネグロス島は長年フィリピンの主要輸出産品である砂糖の主産地として知られてきた。
島の可耕地面積の67%を占めるサトウキビ農園は、
その70%が人口の3%の人に独占的に所有されており、
そこでは島人口の75%が農場労働者として働く、
という植民地時代そのままのピラミッド型の構造が残っている。
そうした状況で価格大暴落にみまわれたとき、
多くの地主がサトウキビ生産を控えたため、 そこで働いてきた労働者たちは土地も職もない貧困の状態に陥ることになった。
自家消費用のバナナを交易にのせる
食料配給などの緊急援助に始まった日本ネグロスキャンペーン委員会の活動は、
一時しのぎの援助から、 島民自身の自立を支援するための農業生産活動への取り組みへとしだいに変化していく。
労働組合が地主と交渉してわずかずつ買い取った土地で、
援助資金で買った投入財を使っての食料生産が開始された。
食料自給によって貧困ラインを克服できれば、
今度は生活自立のための現金収入が必要である。
ただしこうして何かを商品化して販売しようとしたとき、
流通段階にもやはり土地所有と同様の独占支配が障壁としてあった。
大資本や仲買人に牛耳られた既存の商品市場で販売すれば、
小規模な生産者の作物は買いたたきなどの搾取にあうほかない。
こうした状況に直面し、 委員会は農業生産面だけでなく、
流通面でも、 自前の機構を通じて、 自前の作物を、
自前で供給するネットワークをつくる必要を認識する。
ネグロス・オルター・トレードは、 この 「民衆のための市場・流通サービス機構の確立」
を目的として設立されたのである (1986年)。
オルター・トレード社による当初の草の根交易は、
自立運営資金を捻出するために開始された 「マスコバド糖」
が唯一交易品であった。 これを通じて形成された事業基盤のうえに、
バナナの交易は開始される。 サトウキビはネグロスの人々にとって植民地支配と過酷な労働の象徴であるが、
バナナはフィリピンが原産であり、 どの農家にも自家消費用のバナナの木が植えてあることからもわかるように、
栽培には手間のかからない作物である。 オルター・トレード社は旧来の地主・仲買人の支配する地域を避け、
農民自身の自発的組織化が可能なバナナ産地を探した。
そして東ネグロスのある村の農民との提携のうえに、
安定的なバナナ供給をめざした取り組みが開始された。
いよいよ定期輸入のメドがたった1989年、 日本側ではATJが正式発足をみたのである。
ATJが契約するネグロス島の農家がつくる自然栽培のバナナがいくつかの生協で販売されるとき、
100グラムあたり50円前後と、 大資本系列下で販売されるバナナに比して約2倍高い。
バナナ農家の自立基金 (現時点で12円) が上乗せされているからである。
ここからあがる収益のうち基金の分は、 生産者奨励金としてバナナ生産者協会を通じて各農家におりていく。
こうした自立基金を得て、 生産者は農業用の資金が積み立てられるようになり、
またバナナ事業の基盤のうえにショウガ、 トマト、
タマネギなど、 農業生産を多様化することも可能になった。
援助から共助へ:オルターナティブ・トレードの試み
以上のように、 ATJによる民衆交易の形成と発展の過程には一方的な援助から
「共助」 への活動の変化がみられる。 この変化を可能にした契機は、
この草の根交易と 「産地提携型」 消費者運動、
いわゆる生産者――消費者間の 「産直運動」、
それを体現する生協活動との出会いであった。
生協活動との出会いが転機となった理由は、 生協連合グリーンコープ設立の背景にみてとることができよう。
当初からマスコバド糖の輸入を支援していた共生社生協
(北九州や熊本を中心に共同購入事業を展開していた生協)
がなげかけたある問題意識を、 福岡地区生協連合がネグロスでの実地体験を通して共有することになる。
これにより両者が合併して生まれたのがグリーンコープである
(1988年)。 その合併をもたらしたある問題意識とは、
日本では命やくらしや自然を守るということが生協活動の理念として自明のごとく日常的にとなえられているが、
その一方で、 諸外国、 ことに自分たちと取り引きする先の社会で、
貧困が慢性化し、 人々が過酷な労働を強いられ、
そして農業生産環境がプランテーションでの多投入型モノカルチャーによって破壊されているという構造的暴力について、
生協活動やその理念はなんら関係しないのか、
というものである。 こうした意識の共有により、
南と北で共に助け合うこと、 共助が課題として登場したのである。
先述のネグロスにおけるピラミッド型構造と同様に、
すべての国々のうちわずか3.5%にしかならない先進工業国だけで、
世界のGNPの7割以上を占めているという富の独占構造がある。
こうした構造のなかにあってATJのとる基本姿勢は、
富の分配が非常に不平等な現代世界経済の構造を変えていく、
そうした方向をもつという意味で、 オルターナティブな取り引きを行うというものである。
それは一方的な援助や消費者エゴのみの不買運動のように現状維持型の運動であってはならない。
ネグロス民衆運動と生協運動の交流、 そして合流によって生まれたATJの草の根バナナ交易は、
こうした理念に基づいて小規模ながらも確実に展開しているのである。