1998年8月号
コロキウム(論文)
萎縮する日本・蟄居する協同組合
大阪経済法科大学非常勤講師
中嶋 陽子
1. 議論を妨げるもの――組織の間/個人の間の分と権威
最近、 若者たちの海外体験には目をみはるものがある。
とくに、 ボランティア、 放浪、 アジア歴訪などといった、
規格外の社会観察や自己探究の欲求が実感される。
そこに共通するのは、 彼らが日本社会がもつ偏狭さ、
息苦しさを批判する点である。 外国人ばかりでなく日本の若者自身がそれらを広く肌で実感するようになった。
では、 このような日本の閉塞性は、 何が原因なのだろうか。
つまるところそれは、 支配的な階層だけでなく、
私たち庶民にも深く根ざしている権威主義に由来するのではないだろうか。
民主主義が制度として存在しても、 草の根の部分で多様な自発的経験が不十分ならば、
それは、 組織にあぐらをかいた形だけの手続き民主主義に陥る。
そこでは、 議論の内容如何よりも、 それぞれ分を知って協調的にふるまうよう、
暗黙のうちに期待される。 逆にいえば、 一対一の対等な関係での議論に習熟しなくても済むシステムなのである。
しかし、 権威は、 富や権力をもつ側だけに依拠するのではない。
日本は、 細かな格づけに基づいた肩書きが幅をきかす社会であるが、
さらに、 学歴、 先輩・後輩関係、 同窓・同郷意識、
出身校ランクの含意、 研究者にも残る師匠・弟子関係など、
インフォーマルな部分も含めて、 相手の地位や立場を複雑におしはかる社会である。
それを前提に、 意識的/無意識的であれ、 人はそこから相手と自分との距離をはかり、
自分のとる態度や意見の濃淡を決める。 したがって、
総合判定をして、 自分が相手に優位にたてる立場か否か、
という点に敏感にならざるを得ない。 あとで被る不利益を考えれば、
しばしば地位を利用した理不尽やいじめにも耐えねばならない。
しかし同時に、 人は上位者による保護や庇護を期待し、
それに馴染んできた。 これが反面の事実である。
こうして、 権威による分を媒介に、 上位・下位ランクの間でいわゆる共依存の関係がみられる。
では、 この複雑な関係をおもんばからず、 議論に焦点をあてるとどうなるだろうか。
分を前提にしたうえでの意見を期待しあうところでは、
迫真的な意見はしばしば全体の和を乱すことになる。
したがって、 それが新たな議論の芽として前向きに受容されることは少ない。
「話し合いがもめた」 という感覚しか残らない場合も多い。
その理由は、 議論で期待されるのは、 その質的内容よりも、
分を尊重した諸関係の調整が主眼だからである。
さらに、 このような風土では、 「なぜ」 と問うには勇気がいる。
質問者が相手を責めているかのように受けとめられ、
感情のほうが先行するからである。 「なぜ」 に対する答、
つまり根本的な説明や問題点の追及は、 結局うやむやのままになる場合も多い。
しかも、 その結果は人によって受けとめ方が異なり、
漠然とした印象のなかから各自で結論を推定することになる。
意見の違いがどこにどうあるのかが要であるにもかかわらず、
「温度差」 などの巧みな日本的表現に親しめば、
なんとなくわかった気分になる。
一般に日本の議論、 話し合いの精神とは、 こういった類のものであろう。
もちろん、 関係調整を目的とした議論が必要な時もある。
しかし、 分の意識をとりはらい、 異質な面からの視点や核心的議論が必要な時でさえ、
実態はあまり変わらない。 議論に多大な時間をかけても、
内実はほとんど旧態依然である。 こういった現実が本流の部分で続くならば、
若者や女性など、 非本流部分の欝屈感は、 増大しても当然ではないだろうか。
外国 (人) からの批判と、 日本の若者や女性の意見との間に共通点が多いのは、
偶然の一致ではない。
2. 協同組合の 「持ち分――分業主義」
では、 協同組合においてはどうだろうか。 うえのような権威主義やせめぎあいは、
さほど激しくないようである。 だが、 協同組合では、
日本の集団主義が協同という言葉に横滑りしたまま滞留しているように思われる。
つまり、 時には、 指導力をもとめる気持ちがカリスマ性への依存に陥ることもあるが、
多くの場合には、 決断や決定のあり方が過度の集団的協調に片寄っているのではないかということである。
率直な議論や個々の責任、 問題提起能力などを基礎にしてこそ、
協同が成り立つ。 これがおざなりのまま、 要点や問題点の不明確な議論がされると、
みなで話し合ったという形は残るが、 結果的に問題の解決を先送りすることにもつながる。
問題を小出しに様子を見ながら進めていくやり方は、
もはや不易万能の時代ではない。 議論やコミュニケーションの
「近代化」 が必要である。
ところが他方、 協同組合では、 ある種の機能的な分業意識が、
それぞれの持ち分を過大視する結果、 主体的な関わり方を避ける傾向がみられる。
たとえば、 次のような先行事例がヒントになるだろう。
『日本経済新聞』 によれば、 日本では、 無償労働に関して、
欧米の実態に詳しい女性研究者がいるほか、 生活クラブの女性理事や有志が別途独自調査に取り組んだという。
印象的だったのは、 組合員が研究者を含まず自ら調査を開始したという点である。
それぞれの得意分野を基礎に協力しあうことは意味があるが、
だからといって、 それぞれが自分の持ち分に自分を縛るべきいわれは何もない。
元来、 真の問題解決は、 当事者にしか望めないからである。
では、 分業の持ち分に境界線を引く意識は、
どこからくるのであろうか。 組合員の場合、 はたして家庭内性分業意識と無関係だろうか。
たとえば、 次のような場合、 素朴な疑問が生じる。
組織内で性分業的な偏りに疑問を感じ、 改善を働きかけたいと思うとき、
家庭内性分業については、 夫や家族への働きかけは必要ないだろうか。
家庭内の性分業は、 私的問題であり、 聖域なのだろうか。
事実、 日本の中高年層の間で、 男女間の性分業意識が乖離し、
その溝が拡大しているのでは、 との声が聴かれるようになった。
旧態以前に近い夫の意識と、 高まる妻の意識との間の格差の増大である。
しかし、 ここで見落とせないのは、 男性の関与をほんとうに求めるのなら、
妻は夫と家庭内の性分業について対話を重ねるべきではないか、
という点である。 積極的な結果を生み出すには、
夫婦間のこの種の葛藤は、 決定的に重要な過程である。
男性からの批判にもあるように、 もし、 この過程を女性自身が避けたりあきらめたりするならば、
頭でっかちの一面的なジェンダー解釈だといわれてもしかたがないだろう。
残念ながら、 このような機能主義的持ち分主義は、
(女性) 組合員、 (男性) 経営陣ともに妥当するようだ。
とくに組合員の専業主婦の経験が長い場合、 性分業が無意識のまま組織にもちこまれる可能性は高い。
いいかえれば、 主婦組合員としての持ち分に自らを限定する、
という傾向である。 男性経営陣のなかにも、 「女房は専業主婦だが、
自分の仕事をきちんとやっていれば、 お互い干渉しないことにしている」
という声がしばしば聴かれる。 この不干渉主義は、
過度の分業役割の純化を強いることも少なくない。
それにともなう視野狭窄は、 周知のとおり過労死や母子密着など、
地域や集団を問わずさまざまな負荷をもたらしてきた。
3. 機能主義的持ち分と個人のイニシアティブ
ここで、 少し海外の事情をみてみよう。 知人のアメリカ人によれば、
彼は、 小学校をはいると、 弟妹の食事の面倒をはじめ、
かなりの家事分担をしたという。 彼の父親は現業労働者、
母親は大卒の専業主婦で、 低所得層に近い中産層だった。
彼女は外で仕事を始めたわけではなかったが、
この時、 それまでの母親・主婦から一個人としての生き方に重心を移すことを宣言したというのである。
これに対して、 アメリカでは受験勉強がきつくないとか、
男性の理解があるとか、 有利な条件を指摘するのは容易だ。
肝心なことは、 稼得・無償労働の区別なく、 自分を一個人としてどう生かすのかを、
本人自身が性分業を変容させながら、 実行に移したことである。
これは30年ほど前の話だが、 彼には印象的な思い出らしく、
母親を語る表情は誇らしそうだった。 ここには、
家族のなかから男女双方が変わるヒントが示されている。
分業による持ち分や役割純化にとらわれず、 むしろ自らのイニシアティブを尊ぶこと――これは日本でも時代の要請になってきたのではないだろうか。
以上から、 次のように推論できる。 協同組合では、
個人間・組織間でとる態度の距離感を察知するのは、
地位や分といった権威的要素は少ない。 それは、
性分業をはじめとする持ち分ともいうべき、 近代的な分業意識である。
換言すれば、 協同組合という名の集団のもとで発達した、
集団全体を支持し、 機能させる分業感覚である。
それは、 都市勤労家族の性分業自体が、 組織成立の歴史的前提であったことの反映でもある。
分業は、 そもそもが効率的な組織原理だが、 組織が質的な活性化を望む時には、
所与の前提条件を疑ってみるべきだろう。 持ち分を越えた主体性を展開するには、
個人のイニシアティブは重要な契機になる。
ただし、 最近の生協では、 ごくわずかとはいえ退職男性の参加があり、
分析的な、 相手に食い下がる意見が聴けるようになった。
そこでは、 女性組合員は、 自分の議論方法などを男性と比較し、
考察できる。 男性は、 日常生活の大切さや多彩さを知ることができる。
企業的な合理性の限界や一面性などに思いいたることもあるだろう。
少しずつ組合員のなかに新しい血がまざり、 双方が力を磨く時がきている。
新たな傾向として注目したい点である。
4. 生活文化と社会的価値
議論や持ち分の問題と並んで大事なことは、
協同組合が生活文化の一端を担っているという事実である。
そこでイニシアティブを発揮するためには、 必ず一定の価値判断がもとめられる。
たとえば、 京都のある地場スーパーでは、 常備の有機飼料鶏卵の説明と並んで、
ヨード強化などの特殊卵については、 業者と省庁間の問題から消費者に勧められないので取り扱わないという趣旨の詳しい説明がみられる。
判断の是非はさておき、 消費者は、 少なくとも
「商品開発チーム」 の判断の経過について、 メッセージを受けとる。
他方、 チーム側には、 不断の商品研究と一定の価値基準による決断が求められる。
低額商品で名を売ったイズミヤの場合、 初代社長は、
クリスチャンとして、 低所得層への商品提供に使命感をもち続けたという。
また、 乳牛にこだわる篤農家は、 もともと利益の薄い生き物相手の仕事を続けるには自分なりのロマンをもつことが必要だと語っている。
これらの例を敷衍すれば、 それぞれの経営には、
それぞれの理念が伴うということであろう。
協同組合についていえば、 某店舗階上にあるレストランが思い浮かぶ。
最近メディアにも登場したシェフは、 腕のよい意欲的な人である。
ふだんは一工夫された軽食が主だが、 季節の折々に美味なご馳走が企画され、
家族連れが楽しむ。 価格的にも素材的にも、 同業他者と比べてずいぶん良心的である。
とりわけ、 アレルギー/アトピー対応のメニュー開発に熱心な点は、
もっと評価されてよい。 試行錯誤もあったようだが、
このような食文化の定着は、 文化であればこそ、
真価が浸透するまで時間がかかるものであろう。
筆者は、 上記の理念や倫理を、 アプリオリに所与のものとみなすつもりは全くない。
社会的必要性に基づいたニーズに取り組もうとする時、
そこでは先行者としてのロマンや使命感といった面が重要な動機付けにもなる、
という点を強調したいのである。 問題は社会的価値自体ではない。
考えて出てくるものではないからだ。 最大の不幸は、
現実のほうが、 さまざまな問題提起をしているにもかかわらず、
われわれがそれに無頓着で、 時には気づきさえしないということである。
その理由は何か。 結果的に自己観察が足りないからである。
自己観察は、 協同やヒューマニズムそのものからやってくるのではない。
それは、 他流派の協同組合や多様な市民組織など、
外部との積極的な交流を通して自己を客観化すること、
つまり、 自ら進んで自己を比較考察の対象にすることから始まる。
自分の姿は、 外部との諸関係のなかで、 客観的に観察・分析される。
誰も、 鏡なしには、 自分の客観的な全体像を見ることはできない。
さらに、 NGO/NPOであれば、 運動を
(事業) 活動として形成すると同時に、 今後、
世界的視野が不可欠になるだろう。 広い視野は、
現在の自分の位置を教えてくれるばかりでなく、
自分を高所大所から社会的価値と関連づけてくれるからである。
世界中で富の偏在化が進んでいること、 しかも、
先進諸国のなかでも途上国なみの富の分配格差が進展していることにも目配りし、
広い視野から、 NGO/NPOならではの知性を磨く必要がある。
地方都市でも目につくようになったホームレスの人々、
若年・中年層で著しいという失業率の続伸、 女性層に限らなくなった労働力の不安定流動化など、
日本でも、 大競争の開幕と共に富の分配問題が顕在化すると思われる。
残念ながら、 協同組合では、 事業活動の停滞に限らず、
社会的な価値の面でも、 多様な市民グループの特定点での活躍に押され気味である。
再活性化のためには、 若者や女性の声に真剣に耳を傾け、
なによりもそうした人材育成の実行に誠実でなければなるまい。
話を聴いた、 意見を言った、 という形式を整えることには意味がない。
周囲に気を配りすぎず、 内容のある核心的な議論に慣れ親しむことが求められている。
それが、 生活文化や社会的価値を長期的に展望できる力量につながるのではないだろうか。
最後に、 大型生協の先行例を紹介しておこう。
カナダの某協同組合は、 現地大学の専任部門と深く結んで、
さまざまな地域社会のニーズに貢献してきた。
その社会的価値は数箇条のミッションにまとめられ、
その一帯では広く知られているという。 この大学がカソリックで、
かつての中心人物が神父だったこともあり、 環境、
人権、 女性、 マイノリティなどの問題にも積極的である。
行政からの評価も高い。 最近では、 大学とのコープマネジメントプログラムの開発のほか、
各行政レベルと組んでコミュニティー所有の天然ガス供給事業を準備中である。
日本でも、 環境経済の専門家が、 廃熱利用のコジェネレーションを協同組合方式で、
と提案している。 その気になれば、 日本の協同組合も、
まだまだ活躍の余地がありそうだ。
率直なところ、 この私論は、 市民生協を中心として、
最近協同組合の魅力が低下しているのではないかという意識に基づいている。
これまで協同組合では、 組織のなかで性分業が機能的に洗練されてきており、
同時に、 組織内でも家庭内でも、 男女双方が、
性分業の蜜月時代を謳歌し、 それなりの充足感を感じてきた。
しかし、 いまでは、 このような暗黙の了解や組織原理は、
ジェンダーフリーの流れとは逆行しており、 組合員レベルと組織レベルとで変化を迫られている。
まず、 前者は、 組織と家庭でも性分業のあり方を自ら問いかけ、
機能主義的な 「持ち分」 の呪縛から自由になることである。
家庭内の性分業を温存したままでは、 組織の変容は期待薄であろう。
組織としては、 外部との交流を通じて自己を客観視し、
いま社会で求められている問題に対して、 幅広くより敏感になることである。
その際、 組織として形をどうつくるかよりも、
個人の契機をどう生かせるかが重要になると思われる。
そして、 女性や若者への 「理解」 の度合いが決定的な鍵を握っている。