『協う』2010年4月号 視角


地方デパートの撤退と地域文化を考える

平野  隆

 

バブル経済の崩壊以降、日本のデパート業界は、長期低迷に喘いでいる。有楽町西武や京都・河原町阪急など大都市のデパートの閉店がニュースで大きく取り上げられているが、経営状態がより深刻なのは地方都市のデパートだといわれている。今年に入ってからだけでも、丸井今井室蘭店、松坂屋岡崎店、中合会津店が閉店し、北陸地方に店舗を展開して来た老舗の大和デパート(本店・金沢市)も新潟県からの撤退を発表している。
  地方デパート低迷の原因としては、地方都市の人口減少による消費市場の縮小、長引く不況による地方経済の疲弊、郊外型大規模ショッピングセンターの進出による顧客の流出などが指摘されている。地方都市からのデパートの撤退は、中心商業地の衰退を招き、高齢者など「交通弱者」の買物利便性を奪い、いわゆる「買物難民」問題を引き起こしている。
  しかし、そればかりでなく、地方デパートの消滅は地域の文化の弱体化にもつながる。なぜなら、デパートは単にモノを買いに行くだけの場所ではなく、地域の「文化発信源」としての役割を担ってきたからである。
  日本初のデパートである三越が1904(明治37)年に成立して以来、デパートは、多種多様な商品の陳列販売を通じて人びとに最新のファッションやライフスタイルの情報を発信するとともに、博覧会や美術展、学識者の講演会などの文化イベントを開催して、消費者を啓蒙・教育してきた。戦前の三越では、少年音楽隊を作って、店内で当時の大衆にはまだ珍しかった西洋音楽の演奏会を開いたりした。さらに、大食堂や屋上遊園地などもあり、デパートは家族が一日中楽しめる娯楽の殿堂でもあった。
  地方都市にデパートが登場するのは、1920年代から30年代にかけてであり、地元の老舗呉服店などがデパートに転身したり、中央の大手デパートが支店を設置したりした。そして、高度成長期に地方デパートの開設が本格化した。
  デパートの文化的機能は、文化インフラの整備が遅れていた地方都市の住民にとって、大都市以上にインパクトが大きかった。デパートは単なる小売店ではなく、地域で一番大きな美術館、映画館、遊園地でもあったのだ。また、地元の芸術家や愛好家たちの作品発表の場であり、カルチャー・スクールであり、文化交流の拠点であった。加えて、地方都市では、たいていデパートの店舗ビルが街一番の高層建造物であったため、それは街のランドマークになった。だからこそ、たとえば札幌市民は、丸井今井デパートを親しみを込めて「丸井さん」と呼んできたのだ(丸井今井は、売り上げ不振のため2009年に三越伊勢丹ホールディングス傘下に入った。
  このような地方デパートが、上述したように近年次々と閉店・撤退している。それは、地方の文化インフラの崩壊を意味する。いくらインターネットの普及があっても、フェイス・トゥ・フェイスの交流がなければ、新しい文化や情報は生まれない。デパートはそうした交流の拠点だった。大都市では、デパートが持っていた文化的機能は、すでに他の様々な施設や機関(たとえばテーマパーク)に移っている。しかし、地方では、「文化発信源」としてのデパートの代わりはまだ現れていない。地方デパートの撤退によって、大都市と地方都市の間の文化・情報格差が一層拡大する恐れが大きい。
  このように見てくると、地方デパートの社会的・文化的機能の再構築による経営再生こそ、地方都市の再活性化の鍵となるのではないかと思えてくる。その際、東京のディベロッパー頼みの再生計画や人気ブランドの誘致だけでは、全国どこにでもある画一的なショッピングセンターやファッションビルになってしまい、最初のうちは話題になっても持続的に人が集まる場所にはならないだろう。単に便利な店ではなく、デパートの原点である「行けばワクワクするところ」「新しい何かに出会える場所」「文化交流の場」の復活を目指して知恵を絞ることが必要なのではないか。地域の個性とは何か、地元住民にとって何が本当に面白いことなのか、について地道なリサーチを重ね、地域の人びとを巻き込んだプラン作成を行うことによって、地方デパートと地方都市文化をよみがえらせることは決して不可能ではないはずだ。

(ひらの たかし 慶應義塾大学商学部教授)