『協う』2010年2月号 書評1

葉山太郎 著
『日本最初の盲導犬』

安田 則子「協う」編集委員・おおさかパルコープ組合員


  2003年より身体障害者補助犬法が施行し、2007年の一部改正では、行政は補助犬(盲導犬・介助犬、聴導犬)使用者又は受け入れ側施設の管理者等からの相談窓口を設置し、必要とする助言、指導を行う責任が示され、さらに、事業所又は事務所における身体障害者補助犬の使用の義務化が明記された。
  なかでも盲導犬は地域社会での認知は久しいと私は認識していたのだが…。2003年という近年の法制化ということから見える課題は、生活者の意識改革と併せ社会全体のバリアフリー化が求められているようにも思える。
  本書「日本最初の盲導犬」には、事実として歴史の中で今に繋がる貴重な挑戦が綴られている。著者、葉上太郎氏は元記者の経歴を持つ地方自治ジャーナリストでさまざまな社会問題を追求し続けている。本書は、財団法人日本盲導犬協会設立40周年記念事業として、同協会との共同で調査活動し、更に独自調査を加えたものを著者の鋭い洞察力と感性でまとめ上げている。遡ること1939年、ドイツから4頭のシェパード犬が輸入された。時代背景からも容易なことではなかったであろうが、なぜ必要だったのか、なぜ実現したのか、そこからどの様に「日本最初の盲導犬」につながって行くのか。残されている当時の新聞記事や写真資料、関係者の遺族、友人等からの聞き取られた内容が生々しく描かれ、私の表現ですると、単に盲導犬に纏わる記録なんてものではなく、重く深いドキュメンタリーだ。次々と人物や盲導犬が登場するので、年度が前後する箇所には少し混乱するが、前書きで登場人物と犬の関係一覧説明があるので、それを確認しつつ年表を頭で描きながら読み進めるとより理解が深まる。
  本書によると、1916年ドイツでは盲導犬学校が設立された。軍用から始まりすでに育成・訓練方法が確立されていた。そこから世界へと拡がっていくのだが、日本に動きが見えてきたのは20年近くも遅れてからだった。戦争という時代の真っ只中、体の一部を失くしたり、心を病んだりと傷ついた兵士を目の当たりにする当時、日本シェパード犬協会(現・日本シェパード犬登録協会)役員の相馬氏(中村屋社長)は社会福祉に目を向け、ドイツの情報から日本でも能力、資質的にも優れているシェパード犬を盲導犬として育成、訓練し役立てたいと考えていた。一方、1929年設立の中央盲人福祉協会は、設立趣意書に、 "江戸期までに確立されていた援護制度が明治維新で改廃される一方で、競争社会に突入してしまったため失明者は激烈なる生存競争の渦中に苦闘しなければならぬ実情…"と記されている。そのためにも福祉事業の拡充と失明予防対策に力を注ごうとしていた。そして、現実に次々と送り込まれてくる戦場の惨禍をまじかに見た陸軍病院の一部の軍医は、傷兵たちに生きる希望をもたせ社会復帰をさせるためにも何とかしなければと考えていた。経験も方策も無いまま立ち止まっていた日本の失明者対策の転機になったのは、盲目のアメリカ人男子大学生が1938年世界旅行の途中で日本に立ち寄ったことだった。盲導犬を伴った彼の滞在中の様子を当時の記事から“黒船来襲”のようなものだったと著者は記している。本書の中で随所に飼い主(帰還傷兵)となった方々の俳句が盲導犬との生活の様子とともに紹介されているが、句に表すことで心のリハビリにつながると、当時陸軍病院では治療の一環としても勧めていたらしい。
  本書からは、当時の西洋と日本とでは文化も生活環境も違いすぎる状況の中で、しかもマニュアルも無く自らが実験台となって盲導犬との生活に挑戦された方々の強い精神力、それを支えられた方々の思いが伝わってくる。読み終えて、著者の意図するところは?…、戦争のない平和な社会の尊さ、人が平等に生きることが出来る社会の必然を問うものだったのでは?…と私には思えてならない。
  当時活躍した日本最初の盲導犬「千歳号」の剥製が、豊中市に残されているらしい。主人より先に逝った千歳との深い繋がりが周囲の反対を押し切ってまでも剥製で残すに至ったという。「瞼にえがけと言うが…見たことが無い!形、大きさは触って分かるが…顔を一秒でも見たかった。」読み始めに、まず彼の深い言葉を突きつけられる。