『協う』2009年12月号 視角
購買生協に働く職員にとって学ぶとは
椎木 孝雄
「教えすぎてはいけない」、座波仁吉先生〔古伝空手心道流宗家1914年3月~2009年6月〕から、よくこのように諭された。「学ぶ主体をつくることこそが重要なことなのだ」という教えであろうと受けとめている。
沖縄の伝統文化である古伝空手の場合、「型・組み手・実戦(日常)とそのフィードバック」によって「守・破・離」というプロセスで伝承される。「守」とは、型というお手本どおりに徹底的に真似し写し取る段階、「破」とはその基礎の上に自分なりの工夫をしていく段階、「離」とは、個性のある自分の形を表現する段階のこと。漢字に例えると、楷書・行書・草書ということになると思う。守=楷書に個性を入れてしまうと漢字は乱れてしまう。が、工夫し(破=行書)、個性を表現していく段階(離=草書)にまで、教える側が入り込みすぎると、習得する側の個性を損なう。工夫し、個性を確立していく余地を残して教えなければならない。「守・破・離」とは、「型」をとおした、習う側と教える側との信頼関係に基づく創造的な協同の営みなのである。
生協では、職員に、教え込みすぎてきたきらいがある。そう自戒している。「教育」とは〔人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動(広辞苑)〕とある。購買生協は、そこで暮らす人々が組合員となって、生活に必要な品物・サービスを商品として適正な価格で買うための組織であり、電話交換機のように、多くの人と膨大な商品とを個別に媒介する(結び付ける)という、社会にとって大切な役割を担う。その大切な役割を担うために、生協役職員はくらしと商品とを個別に結び付けることの意味を知り、一人ひとりのくらしを知り、使われる一つひとつの商品とその使われ方を知り、くらしと商品を結び付けるために必要な、具体的知識・技術・実践力を身に付けることを、共通の課題とする。必要な知識・技術・実践力は具体的なことだから、誰かが望ましい姿を描き、職員をそのように変化させることなど不可能だと思う。
生協における「役職員教育」の基本は、学習態度・学習方法教育、言い換えれば「学ぶ主体をつくること、学ぶ方法を習得させること」だと、私は考えている。「学習」とは〔まなびならうこと。過去の経験の上に立って、新しい知識や技術を習得すること(広辞苑)〕とある。習得すなわち、頭脳知〔わかる〕ではなく、身体知〔できる〕という次元のことだ。身体で感じ取り、身体で覚え、身に付け、工夫をして、自分固有の形を創ってくことである。そして「学習」は、教育する側があてがう師や意図ではなく、誰から何を学ぶ〔真似る〕か、師や意図は学ぶ側が決めてされるということである。
同時に「学ぶ機会と場をつくること」も必要だ。「学ぶことの大切さ」に気付き、「学びたい」と思ったときに「学びあう場と機会が的確に準備されていること」が重要なのだと思う。ついでながら、生協が「組合員教育」と称して、くらしの知識や商品知識や使いこなし技術を教える、など考えていたこと自体が、懸命にくらす組合員さんに対し、おこがましいことであったと自戒している。素朴な感性で、いいな!と感じる実際のくらしぶりを、共同購入や店舗など組合員さんが生活用品・サービスを買う場において、さまざまな方法でそれが飛び交うようにして、「組合員さん同士が学び合い、つながり合う機会と場をつること」が、大切なことではないかと考えている。
私たちは、自分にとっての生きたお手本=「師」をもつことが大事だと考えている。「モノの使いこなしの師」「暮らしと商品を結びつける技術の師」「マネジメントの師」etc。「師」は組合員さん、役職員など身近にたくさんいるはず。「師」は、言葉や手順などで教えてくれるだけでなく、そのしぐさ・生き方を通して無言で教えてくれる。(むしろ無言の教えの方が多いように感じる)。さらに、仕事・生活のあらゆる場面を学びの機会・場としていく姿勢が大切だと思う。購買生協は、家庭生活がそのまま仕事に生き、仕事が家庭生活に生きるという、数少ない職場のひとつだと思う。人生に活かさない手はない。
しいのき たかお
コープみやざき前副理事長
善の循環システム研究所