『協う』2009年12月号 私の研究紹介

私の研究紹介
               
第17回 北川太一さん 福井県立大学経済学部 教授  当研究所研究委員

 


研究者になろうと思ったきっかけは? 
  私は高校時代、理科系人間で、進路は理学部か農学部の生物系に決めていました。ところが尊敬していた物理の先生に「3度の飯より実験が好きでなければ実験系はつとまらない」と言われ、「絶対に3度の飯のほうが好きや…」っと、あっさりとあきらめました(笑)。それでどうしようかと思ったのですが、農学部のなかに農業経済という分野があることに気づいて、「ここがおもしろそうだ」と思ったんです。というのは、当時、ラジオで浜村淳が「これからは食糧危機が起こるぞ」というのを聞いて、「食糧問題は大事やなあ」と思っていたんです。単純ですね…(再笑)。
  研究者になった理由は、高校から大学にかけてボーイスカウトのリーダーをわりと熱心にやっていて「人前で話すのはけっこう奥が深いし、話したら反応があって、おもしろいなあ」と思うようになったんです。「好きな研究をしながら教員という仕事がやれるなら理想的だ」と思って、この道をめざすことにしました。だから、研究者というよりも教員になりたかったというのが率直なところですね。

農協との出会いは?
  修士課程の頃は、農協のことはほとんど意識していなくて、どちらかといえば地域営農や集落組織の問題などで修士論文をまとめました。
  農協との出会いは、博士課程1年生のときにある先輩から「近畿農協研究会」のアルバイトを紹介されたのがきっかけで事務局員を引き受けました。研究会を通して、農協のことを考え勉強し始めました。

学位論文のテーマは?
  農協の合併問題と組合員組織問題でした。当時農協は、農協合併の方針を出していて、特に1987年に全国1000農協構想を出しました。その頃たまたま「農協合併に関する調査研究会」が、農業開発研修センターのプロジェクトのひとつとして、藤谷築次先生をチーフに立ち上がり、その末席に入れてもらったわけです。そこで農協合併問題を手がけ始めて、それを学位論文にまとめました。
  内容は、農協合併に関する既存の研究がいろいろあって、適正規模論も含めて研究サーベイをできるだけきちんとやってみようということがひとつです。次に、戦後、農協合併助成法ができて農協合併を進めている部分と、全国農協中央会(全中)が合併の方針として出した歴史的な経過が続いていたので、その系譜を少し丁寧に押さえてみたというのが2つめの柱です。それをもとに、当時合併した農協をいくつか事例調査していたので、特に合併農協における組合員組織問題を中心にまとめたのが3つめです。
  
「集落営農」も研究テーマですね
  運よく助手として鳥取大学に採用されてから6年半おりまして、その間に子ども2人も生まれました。鳥取大学は全国の大学出身者があつまり、多くのネットワークもできました。その後、京都府立大に1996年10月から講師として赴任しました。
  府大での仕事の柱も農協関係でしたが、京都府農業会議の仕事で「地域営農」「地域農場づくり」の調査を府内の現場を回りながら、行う機会がありました。ちょうど丹後大宮町の常吉百貨店が立ち上がるという話を聞いて、大木満和社長と会ったりしたものです。
  こうした「集落型農業法人」の調査は2年ほどかけて行いましたが、せっかくだからということで、それを『農業・むら・くらし再生をめざす集落型農業法人』(全国農業会議書刊)という本にまとめました。
  今でこそ、国は集落営農を進めていますが、比較的早い時期からどうしても国から押しつけになってしまう。ところが、京都の場合は、そうではなくて、地元から内発的・主体的にそういう動きが生まれていました。そこをまとめるのは非常に意味があるのではないかという話になって、本書が出来上がったわけです。
  これはある意味、地域の協同活動です。今ふり返ってみると、私の関心は農協がやるにせよ、地元の人たちがやるにせよ、その地域の協同活動をいかに育むのか、それを行政はどのように応援すればいいのか、という点にあるのだ、と思います。
 
農協合併の後はどのような進展をみせたのですか
  農協の現場では、広域合併をして大規模になったけれども組合員が逃げていくという事態が起こっていました。しかも、その後、農協はJA改革や経済事業改革を通して、人員の合理化や支所・支店の統廃合や施設の削減を推進しています。その結果、事業や経営的には倒れずに済んでいるけれども、農協の人がふと足元を見つめたときに、「農業協同組合とはいったい何だろうか」とか「組合員とはいったい何だろうか」と疑問を感じる状況になっているんですね。 
農協と組合員と地域の間にある溝・川・・・
  長野県のある農協部長の「農協と組合員の間に大きな川が流れてしまっているのではないか、農協と地域の間に大きな溝ができているのではないか」という言葉が非常に印象的です。たとえば組合員は農協のことを「農協さん」と呼び、農協は組合員のことを「お客さん」とか「顧客」と呼ぶ。地域の人たちから見ると、農協は金融機関です。支所・支店を廃止して、人間を置くよりもATMの機械だけが残り、テレビを見れば「JAバンク」と言っている。つまり、農業協同組合という本名が忘れられ、「JA」あるいは「JAバンク」というニックネームが一人歩きしている。農協と組合員と地域の間にある溝・川が非常に大きな課題になっている。そこに少しでも多くの橋を架ける必要があると、気づいたのはほんの数年前です。

長野県とはどういうきっかけからですか。
  2002年頃に長野中央会から話があったんです。長野県というのは、農協運動が一歩進んでいて、協同組合らしいことを考える数少ない県なんですね。それで、長野の人がわざわざ府大の研究室まで来られて、「農協の組合員組織や組合員活動を再構築したい」とおっしゃった。当時、全国的にはまだそれほど問題意識がなかったけれども、長野の方は「いま経済事業改革やJA改革などと言って、事業、経営の合理化に懸命になっているけれども、われわれは組合員組織の問題をちゃんとしておかないと、将来、農協がバラバラになるという問題意識がある。例えば、北信州みゆき農協は、組合長以下、そういうことに問題意識があるので、とりあえずそこをモデルに研究会をしたい」と持ちかけてこられたんです。
  なぜ長野県の人が私のところへ来られたかというと、近畿農協研究会で、1987年だったと思いますが「組合員組織問題」をテーマに報告し、それを鳥取大学の紀要にまとめました。それがたまたま長野中央会の人の目にとまったらしく、論文を書いてから10年ぐらい後に来られたわけです。
  「組合員組織問題の研究会を立ち上げるので、一緒にやりましょう」ということになって、2003年の春ぐらいから検討を始めました。組合員組織といってもいろいろですが、農村には集落組織というものがあります。農家組合とか農家実行組合と呼ばれているもので、そこが集落内の話し合いの基本単位になっています。この集落組織は自然発生的に歴史的につくられているものですが、それを農協がうまく利用して、農協からの情報(「肥料農薬の協同注文をお願いします」「総代を選んでください」など)を伝えるかたちで、農協の基礎組織として位置づけ、活用してきた経緯があります。
北信州みゆき農協をモデルに
  そういう集落組織と、女性部・青年部といった属性別組織と、作目部会が農協の組合員組織の全体像ですが、まず北信州みゆき農協で取り組んだのは集落組織です。つまり、「集落の会合と言っても、いまのままのやり方では、農村は男性しか 出てこない。これからの農協はそれではいけない。やはり農村社会にはいろいろな個人がいるわけで、既存の集落組織だけに頼っていると、多くの場合は世帯主、やや年をとった男の声しか農協に反映されない。もっと個人の声を聴いたり、つぶやきを拾ったり、それを農協運営に活かしたり、事業として結びつけていくことが大事だ」ということを議論していたんです。
世帯主義をやめて「戸から個へ」
  そのとき出てきたキャッチフレーズというかキーワードが「戸から個へ」でした。「世帯主義をやめて、もっと個人に立脚した農協運営なり事業をやりましょう」ということです。「農協(生協もそうですが)は、世帯で1組合員だけど、これからは『お父ちゃんも組合員、お母ちゃんも組合員』というふうにならなければいけない」等々、いろいろなことを研究会で議論をして、北信州みゆき農協をモデルに、集落組織の仕組みを改めるような方向づけをして、まとめました。
  当時は『日本農業新聞』の一面に取り上げられたりもしましたが、「さあ、これから」というときに組合長が代わってしまって動きが鈍ってしまいました。
  しかし、研究会は、長野県内の松本の農協や飯田周辺の農協や安曇野の農協などに広がっていきました。やり方はそれぞれの農協で違いますが、この問題をみんなが考えてくれるようになりました。全中でも「経済事業改革・農協改革の次は組合員組織をやらなければいけない」という話になって、6年ぐらい前のJA全国大会の方針でも研究会の中身が取り上げられ、広がっていきました。

JAを変えるキーワードを「教育文化活動」としたのはなぜですか?
  JAグループの「家の光協会」が、2000年前後から毎年、農業開発研修センターに委託調査をかけていました。そのテーマはいろいろでしたが、「そもそも農協の教育文化活動がなぜ大事なのか、なぜ進まないのか、ということを調べてほしい」という依頼がありました。その調査研究のメンバーに私もなりました。
  最初は私も教育文化活動に対する意識はそれほどなかったのですが、よくよく調べてみると、「これは組合員活動」だと思うようになりました。生協も農協も、当然、事業があって、事業を通した理念の実現をめざすのが協同組合です。
  ところが、既存の事業が本当に協同組合の理念をちゃんと実現しているかどうか怪しいところがあって、一般企業との競争に打ち勝つために事業を推進しているという側面もある。実際、真の意味で組合員の思いや願いを協同組合という舞台で実現しているのは組合員活動や組合員組織活動ではないかと思ったわけです。
  そんな問題意識があって、教育文化活動なるものを熱心に取り組んでいるという農協に出かけてみると、実はそれは組合員活動を一生懸命にやっているんだということがわかりました。
協同組合・農協の教育活動とは 
  だとすれば、協同組合・農協の教育活動というのは、単に事業を利用することだけではなく、あるいは上から物事を教えたり、偉い先生を呼んできて話を聴かせたりすることではなく、組合員のみなさんが活動すること(事業利用ではなく)を通して、たとえば農協職員も事務局役を担いながら一緒に汗を流して勉強するようなことなのだろう、ということがわかってきたんです。
  実は農協内では、いまなお、「教育文化活動というのは『家の光』誌を推進することだ」と捉えている人が多い。たとえば農協を訪問して、「おたくの農協では教育文化活動として、どんなことをやっています?」と尋ねると、「うちは『家の光』を毎月、職員に推進させている。普及率が上がった」と答える人がけっこう多いんです。
  たしかに『家の光』誌は農協が大事にしている雑誌ですが、それだけではないでしょう。もっと組合員目線や事業利用の一歩手前の活動をやりながら、いろいろなことを学んだり学び合ったりするのが教育活動であり、それこそが地域の文化を育てたり、食文化を育んだりするのではないか。
  もうひとつは、家の光協会が事務局になって、別途、生活文化活動研究会というものをつくって、私がそれのコーディネーター役になって、全国の約10JAの常務・常勤クラスの人たちを集めて、1年ぐらい研究会をしました。2005年だと思いますが、研究者は私だけで、あとは全部、JAの常勤役員でした。私の考えも取り入れながら研究会をまとめましたが、その時の議論が土台になっているところがありますね。
  
「食と農を軸にする」とか、農協と地域と組合員にヨコ串を通すということについて
  この言葉は、先ほどの「生活文化活動研究会」由来のものです。
  生協も同じかもしれませんが、JAの内部構造は本当に縦割りがひどい。特に合併して大きくなればなるほど、信用・共済・経済事業部門というふうに縦割りになって、職員はその専門部性に特化して、隣の事業部門のことは知らない。ところが、たとえば共済の職員が組合員の家に行っても、組合員は共済のことだけを相談するのではなくて、農業のことなども相談します。そうすると、農協内部の仕組みのなかのどこかにヨコ串がついていないと、どんどん組合員が離れていくわけです。
  それと、地域においても、ひとつの部門だけに取り組んでいるわけではなくて、農業もあれば、農地保全もあれば、くらしを守るという側面もあるわけで、そういう小地域における小さな協同組合づくりが集落型農業法人だ、と考えるようになりました。そういうことに対応するためには、既存の協同組合においてもヨコ串・ヨコ糸を通すような仕組みをつくらないと、合併して大きくなった農協のなかに独立した事業部門があるだけのような、合併農協ではなく合体農協になるのではないか。そうしないためには、職員や組合員も、他の部署のことを勉強したり、そのベースに協同組合論があったり、活動があったり、そういうことを育むことが大事、ということだと思います。
  その舞台として地域があるし、組合員や地域住民が主人公だとするならば、農協の職員はコンダクターのようなもので、時には表に出てみんなを引っ張ったり、後ろに回って黒子役になったりすることが大切でしょうね。もちろん、専門的な職員も当然いますが、営農指導員や生活指導員のような人たちは、特定の事業部門に特化するのではなくて、地域の元気の泉を掘り起こすべく、地域に出向いて、組合員を焚きつけたり、応援したり、ゴマすったりする必要があるのではないか。大学病院の専門医も必要だけど、まち医者みたいな役割を担う職員も要るのではないか。あるいは、職員が全面的にやるのではなくて、そういう役割を持った地域のリーダーを育てるとか、そんなことが市場原理の行き過ぎた現在の地域社会には求められているのではないでしょうか。

最後に「地域協同組合」についてお聞かせ下さい。
  1970年代の「地域協同組合論」は、「農家・非農家に関わらず、地域住民を農協の組合員(准組合員も含む)にしてしまう」ということでした。場合によっては正組合員・准組合員の枠も取り払って、地域住民みんなが農協の組合員になる。それがこれまでの「地域協同組合」のイメージです。
  私は「農家でなくても、食や農に思いや願いを持つ人たちや、少し積極的に関わりたいと思っている人たちを、積極的に准組合員として迎え入れるべきだ」ということで、当時の「地域協同組合」と区別するために「農を軸とした地域協同組合」と言ったわけです。要するに「食や農を軸として、地域に根づいた地域協同組合」という意味です。
  もうひとつの重要な論点は、農協法第1条の問題です。農協法第1条は、いまでも「農業者の協同組織が農業協同組合である。農協は農業者の協同組織である。農協の目的は農業生産力の増進である」となっていて、70年当時の「地域協同組合」を主張する人は、「農協法第1条は撤廃すべきだ」と言いました。つまり、農業者だけでなく地域住民の協同組織を「地域協同組合」と定義づけて、当然ながら、「農業生産力の増進という非常に偏った目的はおかしい」と主張したわけです。
  しかし、農協法第1条は非常に大事で、「農業協同組合」という看板を掲げるためには、「農業者」ということをきっちりと押さえておいたほうがいいだろうと思っています。農協の准組合員制度も生かしながら、一人でも多くの日本農業のサポーターを作ることこそが、今、求められているのではないかと思います。
  

プロフィール 
きたがわ たいち 
福井県立大学 経済学部教授 当研究所研究委員
主要なテーマ:農業経済学、協同組合論
主要な学会:日本農業経済学会、日本協同組合学会
主な論文・編著書:『農業・むら・くらし再生をめざす集落型農業法人』(編著)『新時代の地域協同組合』(単著)、『新版・農業協同組合論』(共著)『お~!イノシシ-team4429と考えるこれからの鳥獣害対策』(分担執筆)他