『協う』2009年8月号 特集1
危機の時代における協同組合の課題
―多様な地域のあり方に対応して協同の形を創造するマネジメントはなぜ必要か?―
的場 信樹 (佛教大学社会学部教授・当研究所理事長)
はじめに―問題意識の開示―
昨年(2008年)の総会記念シンポジウムが終わったころから、研究所の運営委員会では、これまでの、少なくとも過去4回のシンポジウムのまとめをしたいと考えていた。前半の2回はいわば生協の内部から、「第2の創業」というテーマで、ビジネスモデルとしてのネットワーク型組織の可能性であるとか、あるいは「個配や共同購入の新しい可能性」というテーマで、組合員と職員の接点に注目し、生協の事業や組織の課題を取り上げて議論してきた。後半の2回はいわば生協の外に立って、地域に潜在する協同する力と繋ぎあう力に焦点を当てて、地域におけるさまざまな協同の事業に注目し、議論してきた。この4回のシンポジウムを通して研究所が何をしてきたのかということをはっきりさせたいというのが、「まとめをしたい」という意味である。研究所としても、過去の研究活動の総括を踏まえて、新しい研究課題を設定し直す必要があるのではないか、またそのような時期に来ているのではないかという問題意識があった。
そのとき、昨年9月15日、アメリカ大手証券会社リーマンブラザーズの経営破綻が起き、世界は経済危機に突入していった。私たちも、この「危機」をどのように理解すれば良いのかについて何回か議論する機会があった。そこで大まかに確認できたことは、社会の危機(社会制度の危機)と地域の危機(コミュニティの危機)と協同組合の危機を統一的に把握しようということだった。協同組合が、社会の危機や地域の危機からどのような影響を受けるのか、あるいは協同組合がこれらの危機にどのように対応しようとしているのかを明らかにしたいと考えたからである。
それから、もう一つは原点に帰ろうということだった。これまでの延長線上で協同組合を考えるのではなく、そもそも協同組合とは何か、どのような存在なのか、というところまで考えないと、これからの協同組合を議論することはできないのではないかという問題意識である。
こうした問題意識をより具体的な事象に落とし込んで議論しようとしたときに転換軸になったのが「マネジメント」の再発見だった。社会と地域と協同組合を一続きのものとして考え、かつ協同組合の原点に立ち帰ってみたとき、地域において日常的な協同(助け合いないし連帯)をマネジメントするのが協同組合ではなかったのか、助け合いを持続させる人々の行為のことを協同組合と言ったのではないかと考えた。これは歴史的事実であるだけでなく、現に私たちの目の前で起きていることでもある。
私たちが「100年に1度」といわれる経済危機のもとにいることは間違いない。そして、危機の時代は変化が加速する時代でもある。これは協同の事業にとっても例外ではない。そこで、今回の総会記念シンポジウムでは、あらためて、これまで私たちが4回のシンポジウム等で追究してきた変化(トレンド)の意味を問い直すことになった。
危機の時代における協同組合の課題
なぜ「危機」という言葉を使うのか
昨年9月15日のアメリカ大手証券会社リーマンブラザーズの経営破綻をきっかけに、「100年に1度の経済危機」という言葉が使われるようになった。もともとこの言葉は、アメリカの中央銀行である連邦準備制度理事会の前理事長グリーンスパンが「われわれは世紀に一度の金融津波の真っただ中にいる」と述べたものが、日本の経済誌で紹介されたときに「100年に一度の経済危機」と意訳されたものといわれている。そして現在では、危機は経済を超えて社会全体の危機という文脈で語られることが多い。「金融津波」から「経済危機」、そして「社会全体の危機」へという使用例の変化は事態の深刻さを物語っている。つまり、部分から全体への危機の深化を表している。ここで「危機」という言葉を使うのは、現状をより全体的に、より総合的に見ることが必要だからであり、そして「危機」を通してみたときにはじめて社会(社会制度)と地域(コミュニティ)と協同組合が一連のものとして繋がっていくからである。
「危機」とは何か
それでは「危機」とは何か。一般的な定義からすれば、既存の社会体制・価値観などがそのまま存続しえない状態が危機である。しかし、既存の制度が崩壊するからといって一夜にして破局が訪れたり、新しい世界が出現したりするわけではない。今回の経済危機とよく比較されるのが1929年の世界恐慌であるが、ダラダラと経済的苦境が続いたあと第2次世界大戦がはじまったのは9年後だった。世界恐慌から各国が本格的に立ち直ったのは終戦後のことである。歴史から学ぶべきは、第1に、危機はこれまでの変化(トレンド)を加速させるだけだということ、第2に、危機は10年単位で長期にわたるだろうということである。今回のシンポジウムで、私たちが過去のシンポジウム等で追究してきた変化(トレンド)の意味をあらためて問い直すことにしたのは以上のような危機認識によるものである。
今回の「危機」の特徴―「新自由主義の危機」―
リーマンブラザーズの経営破綻は1980年代から続く新自由主義への見直しを迫るものだった。今回の危機の引き金を引いたサブプライムローンの破綻自体が民営化・規制緩和の産物である。総需要の落ち込みについても、その原因として指摘される労働分野の規制緩和がもたらした影響は甚大である。今回の危機はきわめて人為的につくられたものであり、その意味で「新自由主義の危機」といって間違いない。1979年のサッチャー政権、1981年のレーガン政権、1982年の中曽根政権の登場にみられるように、新自由主義は「社会主義の崩壊」(1991年)に先行し、かつはじめから「社会主義一般」への対抗戦略という意味を持っていた。「大きな政府」(福祉国家)にたいして「小さな政府」、混合経済(総需要管理)にたいして市場経済(規制緩和)、中間団体(連帯)にたいして個人(利己心)を対置したのが新自由主義の戦略だった。「大きな政府」も、混合経済も、中間団体による社会的連帯も、欧米の文脈では社会主義である。新自由主義は中間団体にも激しい敵意を隠さない。
「中間団体の失敗」と協同組合の世代交代
労働組合などの中間団体の影響力を排除して社会の個人化(連帯の分断)を徹底しようとしたのが新自由主義である。世界的には、この新自由主義の30年間は協同組合の世代交代の時代でもあった。NPOや、ヨーロッパの社会的協同組合や、最近注目を集めている社会的企業もこの世代交代の産物であり、新しい協同組合である。協同組合の世代交代があまり顕在化していないという点では、日本は例外的な存在である。
ところで、新自由主義の登場は1970年代に顕在化した「協同組合の危機」と密接な関係があった。そして「協同組合の危機」は「中間団体の失敗」の一環でもあった。富の偏在や環境問題は市場では解決できないという意味で「市場の失敗」の例である。「市場の失敗」を解決するために政府の市場への介入が正当化される。しかし、その結果財政赤字が拡大したり経済活動が不効率になったりすることがある。これが「政府の失敗」である。この「政府の失敗」への社会の反作用として新自由主義が登場してきたことはよく知られている。
そして、この「政府の失敗」は「中間団体の失敗」と一体のものだった。1970年代には、協同組合だけでなく労働組合やパートナーシップ型企業が存続の危機に陥っている。1970年代にヨーロッパの生協が経験した経営危機や株式会社化も、「中間団体の失敗」のひとコマだった。そして、この中から、1980年代以降NPOや社会的協同組合や社会的企業が登場してくることになる。既存の協同組合の理念や組織が社会やニーズの変化に耐えられなくなってきたのである。協同組合をめぐる最大のトレンドは世代交代である。
マネジメントの研究はなぜ必要か
マネジメントに注目する理由
私たちがマネジメントに注目したのは、それが協同組合にとって死活的に重要であるにもかかわらず不当に軽視されているからである。目的は議論されても、それを実現するための手段、とくにマネジメントについて表だって議論されることは少ない。マネジメントは必要悪だと考えられている向きもある。マネジメントは技術であり価値中立的なので、良いマネジメントか悪いマネジメントかという区別はだれが携わっても同じ、という見方もある。逆に、マネジメントは神技であり誰にもできる訳でないという考え方もある。いずれにしても、マネジメントが必要悪なのか神技なのか、あるいは本当に価値中立的なのか、といったことについて協同組合で本格的な議論になったことはなかったのではないだろうか。
協同組合の事業を立ち上げるためには大変な努力を必要とする。それを日常的な営みとして持続させることは尋常なことではありえない。この「人々が継続的・計画的に事業を遂行しようとする日常的な営み」をマネジメントのとりあえずの定義としたい。「日常的な営み」に強調点がある。 人々の協同の行為こそマネジメントの原点であり、マネジメントそのものである。私たちは、このマネジメントという言葉を「多様な地域のあり方に対応して協同の形を創造する行為」と定義し直し、マネジメントの契機(主な要素)として「地域の特徴を発見する」、「つながりをつくる」という2つの側面に焦点を当てることによって、何がマネジメントに求められているのか、そもそもマネジメントとは何か、を考えてみることにした。
マネジメントの定義
アメリカ経営学会などで一般的に用いられているマネジメントの定義は、「マネジメントはあらゆるビジネスや人間の組織的活動の中に存在する、目標達成のために人々を協力させる活動にすぎない」というものである。マネジメントを必要悪だと主張するときには、協力することによって自由が制約を受けることをいっている可能性が高い。具体的には、組織が大規模化したり、あるいは専門化したりして、つながり(協働)をつくりにくくなる。このようなときに何らかの強制力を働かせて、つながりをつくろうとするときに自由が奪われたと感じる。マネジメントは組織の規模や方法によって効果や影響が大きく変わる。いずれにしても、マネジメントの原点が協業(協働)にあることは間違いない。ここでは、「人々が継続的・計画的に事業を遂行しようとする日常的な協働の営み」をマネジメントの定義としたい。
マネジメントが問題になるケース
組織が大規模化したり、あるいは専門化したりすると、「縦割り」や「個割り」といわれる事態が進み、つながり(協働)をつくりにくくなる。その結果、現場や地域がわかる人がいなくなったり、だれも全体のことがわからなくなったりする。事業は、地域の自然・人口・文化・歴史など「地域の特徴」に依存しているにもかかわらず、地域のリアリティ(多様性)がみえにくくなってくる。今日、至るところで個別化(個人化)・専門化が進んでいる。こうして、組織の中では地域がみえにくくなり、つながりがつくりにくくなっている。こうした事態に対処するためにマネジメントの技法が駆使され、場合によっては自由が抑圧されたり生活が破壊されたりする。あるいは、マネジメントによって個別化(個人化)・専門化がいっそう進んで、地域(市場)のリアリティがみえにくくなってくる。これがいままさにマネジメントが抱えている問題に他ならない。こうした現代のトレンドのもとで、協同組合にはどのような可能性が開かれているのか。そこでの協同組合のあり方はどのようなものなのか。各地の取り組みから考えていきたい。これが2日間に及ぶ、講演、分科会、シンポジウムを貫く基本的な問題意識だった。
まとめ―到達点と課題―
最後に、2日間の討論のまとめとして3点、指摘しておきたい。
「安心、安全、安定」
ひとつは、北川太一福井県立大学教授が、「産直には、安心、安全、安定が必要だ」と発言した点と関連している。これは、産直の問題にとどまらず、今回のシンポジウムがテーマにした「マネジメント」と共通する論点のツボをついた発言だった。すなわち、私たちは今回、「安心・安全」といった「ミッション」、そして、それを持続的に実現していくことができる仕組み、人材、そして組織文化をつくることが必要だということを提起したのだと考えている。
「学習する組織」
2つめは、「学習する組織」ということに関連する。マネジメントの逆作用(効率を追求して効率が損なわれる)から免れるためには、2000年前後に日本を席巻したリエンジニアリング革命(リストラクチャリング)の失敗の経験から、個人の経験を組織が暗黙知として蓄積し、それを構成員の間で共有する戦略が考えられる。これが「学習する組織」である。この点に関連して、今回準備の過程で危惧されていたことが、やはり最後まで残ってしまった。協同組合の場合、組織の構成員として組合員が学ぶということについてきちんとした整理が必要だった。協同組合においても効率性を無視できない。このような制約条件のもとで、組合員と職員がともに経験を蓄積し暗黙知を共有することができるマネジメントのあり方を考えていく必要がある。
2つの研究課題
3つめは、これからの研究所の研究課題である。今回のシンポジウムを終えて、どのような課題が明らかになったのかということについて、2点指摘しておきたい。
ひとつは、やはりマネジメントの問題である。今回、当初の予想以上にマネジメントの重要性を確認することができた。これからの厳しい時代にはミッションを明確にしていくことが枢要になってくるが、ミッションを持続的に実現していく仕組みについて、より本格的な研究が必要である。その際、ヨーロッパの社会的協同組合や他の企業のマネジメントから学びながら、マネジメントについての研究の幅を広げていくことが必要である。
もうひとつは、社会制度に関する研究である。シンポジウムでは、農業制度や医療・介護制度について最新の情勢について紹介があり、生協運動との結びつきについて学ぶことができた。くらしのあり様からいって、こうした社会制度の問題について、本格的な検討が必要である。当研究所においても、ともすると「農業は農業の専門家にまかせておけばいい」、「介護は介護の専門家にまかせておけばいい」というスタンスだったのではないか。この点についての反省が必要だと思う。
流通制度の問題
社会制度の問題は、農業制度や介護制度だけかというと、じつは流通制度が今後、大きな問題になってくる可能性がある。1980年代に、生協規制をめぐって、大店法との関連で流通制度が問題になったことがある。その後、流通制度は、マネジメントの新自由主義化(リエンジニアリング革命)と一体のものとして規制緩和が叫ばれ、80年代後半以降ほとんど問題になってこなかった。
しかし、日本でも、コンビニエンスストアにCO2排出規制をかけなければいけないという議論が出てきているように、流通が環境問題に与える負荷をどうやって減らすのかということが流通制度上の大きな争点になっている。
また、日本では、大店法は完全に過去のものというイメージがあるが、アメリカなどでは、それぞれの自治体が小さな単位で大規模商業施設に規制をかけて、流通と地域社会を統一的にデザインしようという動きが広がっている。そもそも生協関係者の中では、アメリカの流通制度について大規模化と徹底した効率性の追求という一面的理解が蔓延しているような気がする。流通制度についての研究がこれからますます必要になってくると思う。
最後に、鈴木勉佛教大学教授が強調していた協同組合法制のあり方である。たとえば、イタリアの社会的協同組合のように職員も当事者も組合員である制度もあり得る。日本でも、生協は生協法、農協は農協法という「縦割り」のあり方ではなく、総合的な協同組合法が必要ではないかという議論もある。協同組合制度も含めて、社会制度の問題について研究所がもっと強くならなければならない。このことを肝に銘じたいと思う。