『協う』2009年6月号 書評1
藤原智美 著 『検索バカ』
望月 康平 京都大学大学院 法学研究科 法曹養成専攻・「協う」 編集委員
本書は、インターネット上の「検索」に長けて、「クウキ読み」さえすれば、この世の中をうまく渡っていけるかのような風潮に対する警鐘の書である。小説家である著者自身の身近なエピソードを紹介しつつ、平易な文章で現代の日本人の「思考」や「言葉」の劣化を鋭く指摘している点で興味深い。
本書は、はじめに、社会の情報化の進展が著しい今日、小学校の読書感想文や大学の卒業論文、あるいは大手新聞社の記事までもがネット上での情報の「検索」とそこで得た情報の「コピペ」(=複写と貼付)によってパッチワークのように作成される状況が散見されることを指摘する。そして、人々が「検索」によって安易に問題の解決策を見つけ出し、自ら「考える」ということに力を注がなくなっている風潮を批判する。(1章)それとともに、元来演芸関係者の間の業界用語であった「クウキを読め」という言葉が、約10年前から主にバラエティ番組を通して急速に広まり、日常生活のいたるところで、さも絶対的価値を持つかのように使用されていることを問題視している。ここでいう「クウキを読む」の意味は、単に「集団としての規律を守る」ということだけでなく、相手の顔色を窺い、自己主張を避け、正論を言わないこと等、自己を抑圧し、他者への同調を促すものである。そして、このような「検索の時代」と「クウキを読む」という現象が相互作用を持ち、一体となって進展しているという。具体的には、現代の人々は「クウキ読み」のためにあらゆる分野のランキング、人気度を気にするようになり、「検索」によって「全体の思考」=「皆の動向」=「クウキ」を探り、知らず知らずのうちに、「クウキ読みの日常」を作ろうとしている、というのである。(2、3章)
このような「クウキによる支配」は、1960年代の混沌とした時代には見られなかったが、1970年代以降に社会が安定ないしは停滞していくとともに、場の雰囲気を決定付けるもの、場の力関係を固定するもの、として予定調和を求める「クウキ」が社会の隅々にまで行き渡った。そして、現代に到り、情報化によって社会全体がフィクション化する中で、「クウキによる支配」は、「キャラ」という言葉とともに、個性を固定するものとして家族関係や教室の内部にまで及んでいる。(4、5、6章) このように「クウキ読みの日常」が浸透した理由は、日本では古くから地域共同体を背景とした「世間体」が日常の人間関係を強く縛っていたために、独力で考え、主張するという姿勢が弱かったところ、高度経済成長とともに地縁関係の結びつきが希薄化し、「世間」が解体・消滅した際、その空白に「クウキ読みの日常規制」を受け入れてしまったからであった。(7章)
以上のように、「世間」から「クウキ」へ、さらにそこに「検索」が加わり、現代の日本人は自発的思考を奪われ、自立した市民性を剥ぎ取られているが、このような現代において必要なことは、口を閉じ、余計な情報を断ち切り、ロダンの「考える人」のように、全身全霊、孤独に考え抜こうとすること、鋼のように思考する態度である、という。(8、9、10章)そして結論として、「考え抜く」という営みによってこそ、力のある言葉、力のある対話を探りあて、自分の「生」をまっとうすることができる、と主張されている(終章)。
本書はここで紹介しきれなかった様々な社会問題にも、身近なエピソードを通して具体的に数多く触れている。これらの問題に対する本書の著者の一貫した姿勢は、安易に正解を求める姿勢やことなかれ主義的な他者への妥協や効率性を過度に重視した安直な意思伝達は、自己実現や他者とのコミュニケーションや個人主義の確立にとってむしろ弊害になるという主張であると思われる。なお、本書は学術書ではないので、筆者の見解に関してその論拠が不十分と思える箇所も見られるが、共感できるもの、あるいは考えるヒントを与えてもらえるものも多い。近頃少しネットに頼りすぎ、クウキを読みすぎて(あるいはクウキが読めない人のせいで)疲れている、と感じるならば、一度手にとって頂く事をお勧めしたい。