『協う』2009年2月号 私の研究紹介

第12回 中川順子さん 元立命館大学教授(当研究所研究員)
女性と家族をめぐる軌跡

プロフィール

なかがわ じゅんこ 
元立命館大学産業社会学部教授
主要な研究テーマ 「家族政策」 「労働者家族論」 「女性労働論」 「比較ジェンダー論」
主要な学会 「家族社会学会」 「女性労働研究会」 「日本社会学会」 「社会政策学会」 「北欧学会」
論文・著書 「労働者家族の生活枠組み」 「現代家族と家族政策」 「現代の家族と主婦」 「ノルウェーの女性労働」

 

先生の研究テーマとそのきっかけについてお聞かせください

 私は東京に生まれ、敗戦の2週間前に、北海道のまだ無灯火だった山間に集団疎開し、東京には戻れず、そのままそこに住み着き、小学4年のころに札幌に移りました。
  私は5人兄姉の年の離れた末っ子でした。 私が大学に進学する頃は、家の稼ぎ手は公務員の長兄でしたので生活は苦しかったです。 当時大学進学率は5%に満たず、中学で半分は就職し、大学に進むとしても大半の女子は短大でした。 私が4年制大学にいけたのは、ひとえに長兄のおかげです。 両親は昔ながらの 「女に学はいらない」 という考えでした。 長兄は、家では 「横のものを縦にもしない」 のですが、考え方はいたって民主的で 「女でも行きたければいけ」 と後押ししてくれて、地元の国立のみ、浪人はしないという条件で受験し、1959年、北海道大学に滑り込みました。 専攻は社会学です。
  当時女子学生は、学部は文学部、専攻は国文、英文、心理に集中しがちでした。 私が社会学を選んだ理由は、それに反発しつつ、でも抜け切れなくて、文学部の中ではもっとも社系に近いものを選んだら、社会学だったということです。  
  -もっぱら大学生活は社会調査活動-
  私の入った研究室では、主任教授が北海道開発庁や自治体から委託調査をうけることが多く、学部生も調査に動員されました。 私も2回生から調査にかかわることになりました。 私が初めてかかわったのはサロベツ原野の農村調査でした。 サロベツ原野は、湿地帯なので河川を止め、流れを変えるなどして水はけをよくするための工事が必要でした。 そんなところに戦後入植した人々がどう暮らしているか、を調査するものでしたが、昭和34年当時は、都市と郡部の生活格差が激しい時代で、そこでくらす人たちの実態は目を覆うものがありました。 その後、生活保護世帯の調査や都市家族の調査などに携わったことで、社会調査について調査票づくりから最後のまとめ方まで学ぶことができました。
  -私や私の家族は社会のどの位置にいるのかを  知りたくて-
  大学では社会調査活動と並行して 「階級論」 に関する書物を2回生から読んでいました。 なぜ階級論なのかということですが、その当時、事務とか商業とか、そのようなサービス労働に携わる労働者を、資本家階級でもない、労働者階級でもない、「新中間階級」 として、と位置づける議論がありました。
  実は私の家は先ほどものべたように、兄は公務員で、この 「新中間階級」 に属するわけですが、「新中間階級」 にも関わらず、なぜこんなにも猛烈に貧しいのか、議論と現実が違うと感じ、自分や家族の階級的位置を理論的に確かめたいと思い、まず、ライト・ミルズの 『ホワイト・カラー』 などを読みました。  他方でマルクスやレーニン、社会学の階級概念 (富永健一氏に代表される 「社会階層論」) を勉強しました。 当時の雑誌 『季刊経済』 で 「階級論」 の特集が組まれ、とても参考になりました。 ちなみに私の卒論のテーマは、疎開先だった農村を調査対象とした 「農民層の意識と実態」 です。 友人と二人で現地に泊り込み、卒論をまとめるときには、研究室でストーブを囲み夜遅くまで仲間と一緒に書き議論しました。 楽しかったですね。 大学院に入ってからは、院生協議会の活動で他学部の院生と交流が出来て、大いに刺激を受けました。 私の初めての公表論文は、日本社会学会の学会誌に掲載された戦後日本の階級論の展開過程をレビューした研究ノートです。


「階級論」 から先生の研究テーマにどのようにつながっていったのですか?

 わたしの生活実感としては、自分の親に代表される世間の 「女のくせに、女だから・・・」 への反発から 「なにくそ!!」 と大学に行ってしまったのですが、その思いが強かったことも影響して、「女性論」 や 「家族論」 の研究に傾斜していったのだろうと思います。 大学院に入った頃に経済の研究室の人たちと女性史や女性論の研究会をやりはじめます。 当時はA.ベーベルの 『婦人論』 やエンゲルスの 『家族・私有財産および国家の起源』 やマルクス、エンゲルスの女性に関する論文集などを読んでいました。 女性論の視点で、階級論をみるとどうなるか。 階級論は、労働過程で労働を搾取するのか、されるのか、というところで組み立てられており、労働現場にいる限りにおいては搾取する、される、は成り立ちます。 が、一緒にくらしている妻など、仕事をもたない女性たちは、階級論上どこにも属さなくなるわけで、この階級論には女性が不在で、それを埋めるには生活論が必要と感じ、その後の課題となりました。
  就職をした大学が女子短大だったことも、女性や家族を研究対象とすることになりました。 そこは女性ばかりだったことと、社会学の講義をしてもあまり関心を示さないこともあったので、女性の今の社会での立ち位置や将来をどのようになっていってほしいのか、などについて、考える材料を提供する講義をするべきだと思い、女性労働者と家族生活に内容を切り替え、研究内容もそちらにシフトしていったのです。
  - 「家族」 「労働」 を両輪に 「女性労働者」 を  考える-
  生活というのは、物を再生産するプロセスと生命を再生産するプロセスの2つのことが合体したものが広い意味での生活といえます。 中世の時代までは、農業中心の経済なわけですからその広い意味での生活が営まれてきたわけですが、市場経済が発達してくると物の生産を、生命の再生産と分離し、生産労働として経済的に価値あるものとしてとらえるようになります。 生命の再生産は、それ以降は狭い意味での生活、つまり 「消費生活」 としてとらえるようになり、私的な生活領域、つまり家族の私生活に属する部分として、ほとんど社会的に意味をもたなくなるようになりました。 再生産過程とその労働 (家事やケア)、その担い手は 「見えない」 ものとなったのです。 そのようなこともあって 「階級論」 では広い意味での生活ということからみると労働生活はあっても狭い意味での生活-生命の再生産過程とその担い手―を見ていないと考えました。 そこで私は狭い意味での生活の場というのは家族であり、再生産過程での労働の担い手は女性ですからその 「家族生活」 と 「女性労働者」 に研究領域をずらすことにしたのです。
  この分野の研究は、70年代の初めまでは労働論というと職場の話で、家族論というと家族関係を論じるのが主流でした。 家族論は主に社会学でとりあげられてきましたが夫婦関係、親子関係などが主なもので、家族の外側にある労働などは断ち切られたものとしてありました。 ですが、女性が働く場合、多くの女性は職場での労働と同時に家族も背負っています。 ですから私は、女性労働者の研究は、「家族」 と 「労働」 を切り離さず、両輪としなければならないと考えました。 それで 「家族論」 と 「女性労働論」 の二兎を追うことになったのです。


「家族論」 研究についてお話ください

 社会学の家族論とマルクス経済学の賃金論の 「家族」 の捕らえ方に類似しているところがあります。 その社会学の 「核家族論」 (近代家族論) というのは、1960年代よりアメリカから入ってきた考え方で、家族の標準型は男が働いて女が子どもを養うという典型的な 「性役割固定化」 で、そのことを円滑に続けることが望ましい姿として世代に引き継がれていくというものです。 一方、マルクス経済学の賃金論は、家族賃金論の考え方で、その賃金の構成要素 (男性本人の生計費、妻子の養育費、教育費) を見る限り男性中心となっています。 この論理でみると女性は養われる存在であり、働いたとしても家計補助的でしかないことを意味します。 ジェンダー的な視点で見ると、この両者の 「家族論」 は、意外にも共通性をもつのではないか、その視野を持った家族論を考えたいと思うようになりました。 ジェンダー視点を入れた家族論へ、です。 同時に実証派らしく調査の中から、家族の姿を浮き彫りにしたいと思いました。 それがトヨタ研究につながります。
  -トヨタ調査からみえる 「家族」 の姿-
  札幌の研究機関につとめていた夫とはなれて、 私は道北にある名寄市の女子短大に勤めながら子ども二人の育児をしてきましたが、北海道の冬は雪かきや屋根の雪下ろしなどもあって、女子どもで暮らすのは結構大変でした。 そこに夫が立命館大学に赴任することになり、疲れ気味だった私は、再就職できるという 「甘い考え」 のもとに短大をやめ、夫とともに京都に転居し、立命館大学などの非常勤講師 (1976年) をするようになりました。 研究生活を維持するために、いろいろな研究会に所属しましたが、そのひとつにトヨタ調査を展開した 「職業生活研究会」 があります。 そこでは世界的大企業トヨタ自動車とその企業城下町の研究をおこなっていました。 当時、男性研究者は研究対象を産業・労働・職場、または企業城下町という地域までで、労働者の家族を研究対象として扱うまでにはいかないんですね。 そこで木本貴美子氏とともに 「トヨタの労働は家族の支えを抜きには語れないのではないか」 ということで 「労働者家族の生活」 も研究テーマにいれこむようにしました。
  トヨタ調査で明らかにしたのは 「労働者家族の生活の枠組み」 です。 家族生活は一見自発的に組み立てて営まれているように思えるのですが、実は企業が求める家族生活を枠付けられていたのです。 トヨタの場合は、企業にいる限りにおいて生活は安定します。 例えば、住宅ですが、最初は独身寮、結婚すれば社宅が用意されています。 社宅は入居年数に期限が設けられているのでいずれは出て行くことになります。 殆どの人は持ち家をもつことになるので、会社は低利の貸付金制度を用意します。 しかし、その貸付金は会社を辞めると同時に一括して返済するという規則になっていることからなかなかやめられないことになります。 この大企業ならではの福祉が、労働者とその家族を企業にとどめ、「稼ぎ手第一、子育て=家庭第二」 とする生活の仕組みを強いる-枠付ける-わけで、ここに典型的な企業社会とそれに見合う家族の姿が形成されたのです。


家族政策についてお話ください

 このことを敷衍して国の家族政策を考えることができます。 家族政策とはなにか、及び国の家族政策の展開については、1970年代に東京大学社会科学研究所の利谷信義先生がその後の研究の土台となる論文を発表されており、その後の研究をリードされました。 私が学んだのは、国の中長期の方針や計画など重要な文書や、その時々に出される政府や経済界の文書などを重ね合わせて読み込み、政府や経済界が望ましいとする家族像とはなにか、それはなぜか、その家族像に向かってどのように国民の合意形成をはかるか、を分析することでした。 「合意形成」 とは、いいかえれば 「とりこまれる」 ことです。 この 「とりこまれ」 る論理・・・私は 『やられの構造』 といっていますが・・・は、これはトヨタによる労働者家族の生活の枠付け、と似ています。 そこで、私の80年代以降のメインテーマは、家族政策ということになりました。 私の場合、「やられの構造」 は、論理的に明らかに出来るのですが、そこからの脱出の論理に弱点があります。 いまもってそのまま・・・。


研究にジェンダー視点を導入する意味合いについてお話ください

 ジェンダー論は1980年代から上野千鶴子氏などを筆頭に前面にでてくるわけですが、それまではベーベルやエンゲルスを踏まえた 「婦人解放論」 が主軸になっていて、女性は働くことで自立できる、対等になれる、それが婦人の解放だ、というのが主要な論調です。
  この理論が、女性が家庭を出て働くことを励まし、後押しし、保育所の整備や母性保護の権利などで働く女性を支える役割を果たしてきたことは、疑いがありません。 しかし、女性が働くことになって共働きになったからといって男女対等になったかというとそうではないし、賃金は同一になっているかといえばそうなっていない、職場の中でも格差は無くならないわけです。 何が問題なんだろう、ということになります。 それにひとつの解を示すものとして、ジェンダー論がでて来て、社会的につくられた性・性差-ジェンダー―こそが、性役割・生き方を決め、異なる役割グループを作り出す、そしてそのグループ間は不平等な関係となる…ジェンダーが問題…と主張するわけです。 1979年に、国連で策定された女性差別撤廃条約もまた、性役割分業こそが性差別の根源だ、と指摘しました。 私もマルクスやエンゲルスの理論から入ってきたものですから、これまでの賃金論や婦人解放論に思い入れがあります。 これらとジェンダー論の位置関係を考えることが必要でした。

男女共同参画社会についてお話ください

 私が比較的、納得のいくつながりがみえてきたのは男女共同参画社会からです。 男女共同参画社会は、「性別秩序」 を変えていくということが目標です。 その 「性別秩序」 というのは、社会的に形作られた性差によって、男女のあるべき生き方をあらかじめ作り、その枠組みで社会の秩序がつくられる。 男性は養い手であって、女性は養われるという性役割に基づく性別分業の家族が標準とされ、それを前提に税制、年金、賃金のなどの制度がつくられ、それらがリンクして、性差を基礎にした社会の仕組みができているわけです。 これが社会の性別秩序、あるいはジェンダー秩序といわれるものです。 これが女性の生き方を決め、あたかも運命的に定められているのだと思わせられてしまいます。
  日本の企業社会は正に男性が企業戦士で女性が銃後の守り手を妻が担うという性別役割を作り上げて日本のジェンダー秩序をつくってきたといえます。
  しかし、少子高齢社会、ポスト工業化、といった大きな社会変化によって、サービス・知識が重要となり、女性の役割も変わってきます。 当然女性がもっと社会進出できるでしょうし、労働市場もまた女性労働力が必要です。 そうなるとこれまでの男性だけが働き女性は家事といった性別秩序と折り合いがつかない。 その折り合いのつかない社会を根っこから切り替える、それが男女共同参画社会であるべきなのです。 これは壮大で革命的な内容をもっているわけです。 それがはっきり表現されているのは 「男女共同参画ヴィジョン」 でした。 が、この革命的な理念は、男女共同参画基本法に至る過程で後退しました。 とはいえ、基本法が成立したのは前進といえます。 私は、K町の男女共同参画計画の策定にかかわり、その中で、地域を変えることの重要性を実感しました。 公的福祉が後退し、家族もまた力を弱める中で、女性の発言しやすい、活動しやすい地域は、多様なサポートネットをつくりだせるのではないでしょうか。 この意味で、近年の各地の生協を母体とした女性たちの地域活動に注目しています。

比較ジェンダー論とはどのようなものですか

 比較ジェンダー論は私の講義課目の名称です。 特に確立した理論があるわけではありません。 この講義は、ヨーロッパの先進国を対象にした比較福祉国家論で提案された福祉国家の3つのタイプ、を下敷きに、その3つのタイプと、女性の社会的位置や状態が大いに関連しているのではないか、と考え、その関連をみようとするものです。 たとえば、このモデルの中で社会民主主義モデルとされるのは公的福祉が充実している北欧ですが、女性の負担が少なくジェンダー平等の達成度も高いのはノルウェーなど北欧国家です。 その対極にあるのが自由主義モデルで、典型はアメリカです。  市場主義・自己責任社会となっているので、福祉も買う。 女性の労働環境は整備されてきたが、性別職務分離や母子世帯の貧困率など性差別は残る・・・。 その中間は保守主義モデルとされるドイツなどですが、家族中心の福祉で公的福祉はその補完とされ、女性は家族福祉の担い手とされ性役割が強く、社会進出は遅れ気味です。 これを下敷きにフェミニストたちが批判的にモデルを立ち上げていきます。 そのひとつが、「脱家族」 を指標にするという考えです。 女性がどれくらい家族的な負担から解放され、女性が働きやすくなっているか、によって類型化するわけです。 ただし、この理論はあくまでも先進国の比較ですので、日本などアジアの国々や移民の女性を組み込めません。 最近、大沢真理氏がジェンダーを中心軸にすると日本を典型とするモデルが出来るとし新たな3類型を提案しています。 これらを組み入れた 「比較ジェンダー論」 を組み立てていきたいものですが、大変でしょうね。