『協う』2008年4月号 視角

ネットの功罪を見極めよう

岩垂 弘


 なんとも恐るべき社会が到来したものだ。インターネットが絶大な威力を振るうに至った今日の日本社会のことである。
 コンピュータが結ぶネットワークであるインターネットが日本で一般化したのはここ10年くらいのことだ。それは、パソコンと携帯電話の普及によって驚くべき速さで一般に広まった。いまでは、インターネットなしには私たちの生活は考えられないほどだ。  
 調べものをする。物を売り買いする。遠く離れた海外の情報も瞬時に得られる…… インターネットは私たちの生活を劇的に変え、生活は著しく便利になった。が、その一方で、ネットによる弊害もまた急速に増大している。
すでにマスメディアではその弊害が多々報道されている。ネットを介した犯罪、ネットによる他者攻撃等々である。とりわけ私が暗澹たる気持ちに陥るのは、ネットによる他者攻撃だ。大人の世界では特定個人への誹謗・中傷が相次ぎ、社会問題化しているし、子どもの世界では、メールによるいじめが広がっている。子どもの自殺にはいつも胸ふさがる思いがするが、それも仲間からのメールによるいじめが原因らしいとの報道に接すると、いたたまれない気持ちになる。 
 これらネットでの他者攻撃の特徴は、それが匿名でなされているということだ。それは、自らは安全な城壁内に身を隠して銃眼から城外の人を銃でねらい撃ちするに等しい。なんともひきょうな行為で、こうした個人攻撃は人権侵害そのものと言っていいだろう。
 ネット事情に詳しいジャーナリストの井上トシユキさんは 「もともとネットユーザーの世界には、市民が連携して不正を暴こうという意識があったが、最近はストレスのはけ口のような印象だ」 と警告している ( 『読売新聞』 3月1日付)。わが日本社会は、ネットの発達・普及によってますますとげとげしくなり、他者への思いやりとか、協同・連帯の精神がますます希薄になりつつあるのではないか。なんとも寒々しい。
ところで、ネットを論ずる上でこの際、強調しておきたいことがある。それは、ネットが生み出したものは弊害ばかりではない、ということである。つまり、ネットがもたらしたものには、積極的に肯定していい点もあるということだ。
その一つは、一般の市民もネツトを通じて自らの考え、主張を自由に発信できるという点だ。これまでは、情報伝達の手段と言えば、新聞、雑誌・週刊誌、ラジオ・テレビなどのメディアであったが、これらを通じて情報を発信できるのは権力や金 (資本) を持つ者で、名もなく金もない市民は世の中の人々に伝えたいことがあっても、手段がなかった。いわば徒手空拳であった。しかし、今では、パソコン一台あれば、だれはばかることなく世界に発信できる。私たちは無限の可能性を備えた武器を手に入れることができたのだ。
 そのことを私が痛切に感じさせられたのは、ジャーナリストの伊藤明彦さん (東京都在住) が始めた、原爆被爆者の声を英語でネットで発信するという試みである。
 伊藤さんは、広島・長崎の被爆者を訪ね、その被爆体験を聞き、録音するという作業を続けてきたことで知られる。これまでに収録した被爆者の声は1840人にのぼるが、伊藤さんはその一部を06年から 『被爆者の声』 のタイトルでネットに流し始めた。さらに、文章化した 「声」 を英訳し、これを07年8月からネットで発信し始めた。これにより、被爆者の 「声」 が世界の隅々に届くことになった。伊藤さんは言う。「インターネット・ジャーナリズムには数万円のツールと 『伝えたい』 という最も原始的な 『放送の原点』 『ジャーナリズムの原点』 があればよく、時間的・空間的制約はいっさいない」 「核兵器保有国の青年たちに被爆者の声を届けたい。青年たちが核兵器使用結果の実相を知り、核兵器製造、備蓄、配備、使用の意志を失ってゆけば、核兵器保有国は跡継ぎを失ってゆくでしょう。後継者がいなくなれば核兵器は無用なものになる」
今こそ、ネットがもたらした功罪に目を向けたい。そして、「罪」 の側面を減らし、「功」 の側面を伸ばすようにしたいものだと切に思う。

いわだれ ひろし
平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員