『協う』2008年2月号 生協の人・生協のモノ
初めての福祉単独型事業所を開設して
~医療職から福祉職に転身して~
稲田基子(松江保健生活協同組合・せいきょう学園福祉センター所長・保健師)
病院から地域へ
私が勤める 「せいきょう学園福祉センター」 は2006年3月に開設した。 この施設は、 デイサービス・ヘルパーステーション・居宅支援事業所の小規模多機能型福祉施設で、 当生協にとっては初めての医療機関との併設でない福祉単独型事業所となる。 当時私は、 333床の総合病院の看護部長として働いていた。 所長兼ケアマネジャーとして2006年7月開設間もない事業所に赴任した。
この事業所は、 福祉分野の今後の事業展開を図る上での試金石との位置づけであったが、 小規模事業所として経営を成り立たせるのはおおきな困難があった。 それは、 この事業所が組合員の少ない地域への初めての進出という事情もあって、 デイサービスとヘルパーステーションの利用者を増やすことが課題であった。
事業所の経営は、 ヘルパーステーションの赤字部門をデイサービス部門でカバーするという構造になっていた。 その後、 福祉センターの赤字のひとつになっていたヘルパーステーションを一時閉鎖する対策を取ったことで、 事業所の経営的見通しが2年目に見えてきた。
くらしが見える
私は、以前、訪問看護師として地域に出ていたので、地域に出ること、利用者と直接接する仕事は大好きだが、 ケアマネジャーは、医療面だけの関わりではなく利用者の生活全般を見なければならない。 直接ケアをするのではなく、 様々なサービス利用を通して利用者の望む生活の実現をめざす仕事だ。 利用者を中心としたケアチームの団結を紡ぐ仕事であり、そのチームワークの良さが良い仕事につながるものだと思う。地域に出て利用者の暮らしがよく見えるようになったが、その暮らしを支えることの難しさをよけい痛感するようになった。
私がかかわった人に、当生協の病院のすぐ近くに住むK子さんがいる。彼女は、93歳で一人ぐらし、子どもはなくずっと専業主婦をして、2年前に夫を亡くした頃より認知症状がでてきた。 とても上品でおしゃれなK子さんだが、 家族のように世話を焼いてくれる隣人のおかげで何とか一人暮らしが出来ていた。
ある日、お買物に一人で出掛けたところ、ひったくりに遭い転んで大けがをした。本人は、ひったくりにあったことはよく覚えていたが、骨折したことは忘れて、その後、 骨折は治ったが、 以前のように歩けなくなった。 これまでお世話してきた隣人も親戚も 「自宅での生活は無理」 と判断して、 K子さんは3カ月後に療養型の病院に転院することになった。「半人前になったので (ここにいるのは) 仕方がない」 とさみしそうにつぶやいたK子さん。 今また療養型病院から退院を迫られているが、特別養護老人ホームに申し込んでも、100人以上の待機者の中で入居のめどは立たず、 また、 月10万円以内と言う条件を満たす、すぐに入れる施設もない。車椅子で生活できる住居があり、 隣近所の支え合いや介護保険サービスで自宅での生活の実現が出来ればいいのだけれど。
地域でくらしを支えるには
人は誰しも 「住み慣れた我が家 (町) で暮らしたい」「最後まで自分らしく生きたい」「親しい人たちとのつながりをもちながら暮らしたい」という願いをもっている。しかし、 高齢になり病気や障害をもつと自分ではこの願いを実現できない。家族がいてもむずかしい。介護保険のサービスだけでは不十分だ。介護を受けながらも可能な限り生活者として主体的に生きていく援助は出来ないだろうか。生活するために「自分で考え、自分で決める」 ということに生きる活力があるように思えてならない。 高齢者の暮らしを支えるため、 COOPのお互い様活動や当生活協同組合の組合員組織力を活かして、 医療や介護だけでなく住居やいきがいの問題など幅広く手を取り合って考えていきたい。