『協う』2008年2月号 ブックレビュー2

瀬戸上 健二郎 著
「Dr.瀬戸上の離島診療所日記」

廣瀬 佳代 京都生活協同組合組合員、 『協う』 編集委員

 1978年5月、 37歳の瀬戸上 (せとうえ) 先生は、 国立病院の外科医長を辞め、 鹿児島で開業計画をすすめている空白期間の6か月だけという気軽さで鹿児島県の薩摩半島の西にある甑島 (こしきじま) 列島の下甑村 (現在、 薩摩川内市下甑町) 手打 (てうち) 診療所に赴任した。 甑島列島は鹿児島市からバスで1時間の串木野港から高速艇で75分 (貨客船では5時間以上) のところにある。 瀬戸上先生はDr.コトー (原作山田貴敏 「Dr.コトー診療所」 週刊ヤングサンデー2000年より連載。 03年、 06年にテレビドラマ化) のモデルである。 本書では、 瀬戸上先生が手打診療所に赴任してから離島医療に半生を捧げることになった28年間のことが振り返られている。
  医療をめぐる問題が最近、 顕著に取り上げられているが、 離島では30年前からすでに 「医者探し」 が始まっていた。 離島医療は、 海で隔たれているゆえ、 島で完結する医療が求められる。 それが課題であり困難さであるが、 それを瀬戸上先生は整備し、 島での生活の幅を広げていった。 たとえば人工透析ができるようになって、 島外で家族と離れて暮らさざるをえなかった人が、 島に帰って仕事にも就くことができた。 また助産師さんの手に負えない帝王切開などの緊急の手術に対応でき、 島での出産の環境がより整った。 そして離島医療にとってもっとも大切な救急医療の体制は、 医療機器の整備と職員の訓練、 そしてヘリ搬送による内地の専門病院との連携などを整えていった。 外科も内科も産科もありとあらゆる患者さんがとびこんできて、 医師にも患者にも選択肢がないなか、 「一瞬たりとも待ってくれない命を救うために医師としてのすべてを尽くしていく」。 それらの達成感が、 「医師として時代から取り残されてしまうのではないか」 という不安をかき消した。
  瀬戸上先生の文章から感じとれるのは、 島の人たちとのあいだで交わされる互いの眼差しの温かさである。 瀬戸上先生に半年でもいいからとにかく診療所にきて欲しいと言った村長に初めて会ったとき、 先生は彼を 「好人物」 と感じ、 また、 初日の待合室にいた島の人たちが 「にこにこ」 しているのをみて、 のどかで平和な島という印象をもっている。
  離島医療に尽くした半生といえば、 困難にひとり立ち向かう姿を想像してしまう。 たしかに手打診療所が救急医療に対応し、 瀬戸上先生の専門の外科手術だけではなく帝王切開や早期胎盤剥離などの産科の手術、 血管外科の先生の協力で腹部大動脈瘤の手術も可能な診療所にしたのは、 瀬戸上先生の奮闘なしにはあり得なかっただろう。 しかし 「島の医療は自分たちで守っていかなければならない」 という、 離島ゆえの島の人たちの潔い決意があり、 それに応える瀬戸上先生がいたからではないだろうか。 たとえば救急医療を行う上で欠かせない血液確保にも島民の献血台帳が整備されており、 深夜の緊急の手術でも輸血用血液の必要量を短時間で集める体制が整っている。
  しかし、 離島ゆえの運命といってしまうにはあまりにも悲しいのが、 瀬戸上先生のお父さまの容態が悪くなったときだ。 島の外へ出るときは、 急患の患者がいないときに限られ、 大隅半島の東串良町への帰省はいつも慌ただしかったようだ。 容態が悪いという知らせを受けたときは定期船がでたあとで、 漁船で串木野港へむかわれた。 息子の開業を心待ちにしていたお父さまへの親孝行もままならず、 離島医療に携わる者の宿命とされていたがあまりにも切ない。
  本書の最後には 「医師の仕事は、 しょせんは人助けであり、 社会奉仕であります。 少々、 自己犠牲的な面があるのは当然でしょう。 むしろ、 村の人々に喜んでいただき、 医師として活かしていただいたことに感謝しなければならないのは自分のほうなのです。 なんの仕事でも人様に喜んでもらえるところで働けることほど幸せなことはないのではないでしょうか」 とある。 自己犠牲であっても、 島の人々の生命を支えていることが実感できるのが、 「離島」 という場所なのかもしれない。
  しかし瀬戸上先生が赴任された頃は、 地域の医療を支えるために行政のバックアップも大きかったが、 最近は拠点病院の医師不足を解消するために診療所を閉鎖していくところも多く、 今後の医療制度改革で地域の医療はより厳しくなるだろう。 そこに住む人々と先生 (医者) との信頼で成り立つ地域医療が 「旧きよき時代」 のおはなしにならないようにと思う。(ひろせ かよ)