『協う』2007年10月号 私の研究紹介
第5回 愛媛大学教授 村田 武さん
世界的視野で食糧の安全保障を考える
―今、
協同組合が果たす役割とは―
農学部を志望されていたようですが、 なぜ経済学部に入られたのですか?
1942年 (昭和17年) に北九州市 (旧小倉市) で生まれました。
父は熊本県出身で、 国鉄小倉工場の蒸気機関車の熟練溶接工として、 仕事に誇りをもっていました。
母は大分県宇佐の貧農の家で生まれました。 戦後の食糧難の時代によく食べたかぼちゃや馬鈴薯、
それに唯一の甘味であったサツマイモ原料のイモ飴のことを今でも思い出します。
また、 小学校時代は、 春休み・夏休みを利用してよく母の実家で過ごし、
畦の水路での掻い堀りや農耕馬の飼料にするレンゲ刈りなどをしました。
これらの体験が、 私を農業や農村に関心を持たせることになったと思います。
中学生の頃は園芸に関心を持ち、 植物学者の牧野冨太郎の伝記に感激したことを覚えています。
研究者に憧れるようになったのも、 その影響でしょう。
小倉高校を卒業した1961年 (昭和36年) は、 農業基本法が施行された年です。
私は、 食糧問題の解決のためには米を増産する必要があると考え、 「稲の育種」
を学びたいと北海道大学農学部を志望したのですが、 理系である農学部に入るには数学の成績が伸びなかったこともあってあきらめました。
文系、 それも消去法で経済学部を選び、 九州を出たいということで京都大学経済学部をめざし、
一浪して入りました。
京都大学経済学部では3回生から専門のゼミに所属します。 何と、 経済学部にも農業に関するゼミがあるではありませんか。
山岡亮一先生の 「農業経済論」 ゼミでした。 「経済学部でも農業のことを学ぶことができる」
と、 とても興奮したことを覚えています。 山岡ゼミでは、 2年先輩に中野一新先生がおられました。
その後、 大学院修士課程に進学し、 修士論文では、 ドイツ農業法 (1955年制定)
の近代化農政としての性格を明らかにすることから研究をはじめました。 その理由は、
1961年施行の農業基本法は、 フランスとドイツの農業法をモデルにした法律で、
その法律の思想の根本を知りたいという思いがありました。 また、 山岡先生がドイツ農学を専門にしていたことと、
私が第2外国語にドイツ語を選択していたということも背景にありました。
農業経済学研究の転機になったのはドイツ留学とききましたが・・・。
1969年 (昭和44年) 5月、 京大大学院経済学研究科博士課程に入って1年過ぎる頃、
尾崎芳治先生のご紹介で大阪外国語大学ドイツ語学科助手に採用され、 「政治経済学ゼミ」
と 「中級ドイツ語講読実習」 を担当しました。 結局、 11年間、
助手、 講師、 助教授としてお世話になることになったわけですが、 ドイツ語学科の学生からのドイツ語文法や作文の質問にはいつも苦労しました。
私の農業研究にとって大きな転機になったのは、 1976年 (昭和51年)
3月から1年間、 文部省在外研究員としてベルリン・フンボルト大学農学部に留学し、
東ドイツ (ドイツ民主共和国) の土地改革から農業集団化にいたる農業史を現地で研究することができたことです。
当時の国立大学教官で、 在外研究先を東ドイツにしたのは私が第1号だったと思います。
これらのことを可能にしたのは、 政治経済学担当でありながら、 もっぱら農業問題に関心と研究を集中させる私を許していただいたドイツ語学科の先生方のご理解があったからこそだと感謝しています。
その後、 東ドイツが崩壊 (1990年10月) しました。 私の東ドイツ農業研究は、
戦後から1960年代までの歴史研究が中心だったので、 研究を続けられないはずはなかったのですが、
「社会主義の崩壊」 と西ドイツへの統合にともなう混乱のなかで、 東ドイツ研究への意欲が失われたというのが本音です。
直接には、 東ドイツ農業研究で経済学博士号を取得したいという考えが挫かれる結果になってしまいました。
ガットや農産物貿易に研究内容をシフトしてきたのは、 いつ頃ですか?
1980年 (昭和55年) に、 新潟大学、 金沢大学、 岡山大学の3大学が、
いっせいに法文学部を文法経3学部に改組拡充し、 新たに教官を募集しました。
金沢大学では、 法文学部時代に京大の松井清先生や小野一郎先生が永らく
「世界経済論」 の集中講義を担当された歴史もあって、 世界経済論担当の助教授にどうかと、
私に声をかけていただきました。
翌81年4月に 「世界経済論」 担当助教授として赴任しましたので、
東ドイツの社会主義農業から研究テーマを広げる必要もありました。 1980年代になると世界経済のなかで米欧間の農産物貿易摩擦が深刻化し、
それは86年のガット・ウルグアイ・ラウンドの開始につながります。 私は、
研究分野を東ドイツ1国研究から、 まずは、 先進国の農業保護政策史研究、
次いで現代農産物貿易問題に研究テーマを転換させました。
そのなかで、 EU諸国の乳業分野で酪農協同組合が、 ネスレやユニリーバなどアグリビジネス多国籍企業と互角に闘っていることに注目するところから、
農業協同組合運動を研究に取り込むことにしました。 デンマーク、 アイルランド、
ドイツなどの酪農協同組合を現地調査しています。 とくに注目したのは、 アイルランドの酪農協同組合です。
国内市場の狭隘なアイルランドの酪農協同組合は1990年代になると、 国際戦略をもって、
アメリカへの海外直接投資をめざしました。 問題はそのための資金調達でした。
大手酪農協はいっせいに事業を株式会社化する (株式発行で資金を調達) ことになりました。
しかし、 その中で、 デイリーゴールド農協だけは株式会社化の道を歩まず、
「純粋協同組合」 路線を選択しました。 私は、 このデイリーゴールド農協やアイルランド全国酪農協同組合本部などを訪問し、
協同組合運動の何たるかを学ぶ機会を得ました。
この時期、 中野一新先生を代表とする 「京大現代農政研究会」 に参加し、
アグリビジネス多国籍企業についての共同研究を開始しています。 その最初の成果が、
R・バーバック/P・フリン著 (中野一新・村田武監訳) 『アグリビジネス・アメリカの食糧戦略と多国籍企業』
(大月書店、 1987年刊) です。 私の研究は、 国際的な商品穀物の動向や国際商品協定に広がりました。
1993年には、 東京穀物商品取引所のコーヒー豆上場をめぐる委託研究 (故松浦達雄氏が理事長であった新農政研究所が受託)
に声をかけてもらい、 インドネシアのコーヒー産地を1ヶ月かけて現地調査したのが、
私のコーヒー豆研究の第一歩でした。 1995年には、 国際コーヒー協定の研究のために国際コーヒー機関
(ロンドン) を訪ねました。 そのロンドンで目にしたのが、 街角のオックスファム・フェアトレード・ショップでした。
九州大学に転任されてからもコーヒー豆研究でアジア各地をまわられたのですか。
金沢大学経済学部から九州大学農学部に転任したのは1998 (平成10)
年4月です。
1996年に、 ガットからWTO設立 (1995年) という状況を踏まえ、
WTO体制下の世界農産物貿易と先進国の農政転換、 とくにEUの農村地域対策、
さらに農協の国際戦略などの研究をまとめた 『世界貿易と農業政策』 (ミネルヴァ書房)
の出版にこぎ着けました。 この単著で京都大学に学位を請求しました。 中野一新先生が主査を引き受けてくださり、
1997年5月に博士 (経済学) を授与されました。 このこともあって、
当時教授ポストが空席になっていた九州大学農学部農政学講座に招聘されることになりました。
九大農学部では、 WTO体制下の世界農業研究を発展途上国に広げ、 ベトナムのコーヒー産地
(ダクラク高原)、 中国雲南省南部のコーヒー産地現地調査なども行い、 コーヒー豆研究をフェアトレード運動に結びつけることになりました。
フェアトレード運動を進めるNPO法人の設立にも関わり、 2003年にはオックスファム・インターナショナル著
(日本フェアトレード委員会訳・村田武監訳) 『コーヒー危機・作られる貧困』
(筑波書房) を出版しています。
コーヒー豆研究をフェアトレード運動に結びつける、
といわれましたが、 その点を詳しくお聞かせください。
コーヒー豆など熱帯産品の多くは、 国際市況商品であって国際価格は先物取引市場で決まります。
コーヒー豆の場合はニューヨークの 「コーヒー・砂糖・ココア取引所」
が代表的な商品取引所です。 そして、 熱帯産品にこれまた共通するのは、
世界貿易が一握りの巨大商社や加工企業に握られていることです。 コーヒー豆の場合には、
クラフト社、 ネスレ社、 サラ・リー社、 P&G社など4大企業で世界貿易の7割を押さえており、
買い手独占の状況です。 WTO体制のもとで、 熱帯地域の途上国は輸出外貨を稼ぐためにコーヒー栽培を奨励し、
結果として世界コーヒー市場は過剰供給と低価格に悩む事態に陥りました。
国際コーヒー協定は、 安定価格をめざして供給量を規制する条項を失っています。
かくして、 「コーヒー危機」 と呼ばれるほどのコーヒー価格の長期低迷は、
2,500万人に上るコーヒー生産者を苦しめるにいたったのです。
この 「コーヒー危機」 からコーヒー生産者を救おうと、 国際的なフェアトレード運動が高まっています。
1940年代のアメリカに始まり、 60年代には西ヨーロッパで本格化したとされるフェアトレード運動は、
オルタナティヴ・トレードともいわれますが、 その基本は、 先進国の途上国支援団体や消費者団体
(生活協同組合やNPO法人) が途上国の住民の現金収入源となっている産品
(農産物、 食品、 工芸品など) を、 生産者グループや生産組合、 農協などから直接に輸入する、
その際の価格は生産者の生活が保障される価格 (フェアトレード価格) を生産者に提供するところにあります。
それは、 国際市況の変動を利用した大手企業の買いたたきを防ぎ、 途上国の生産者が原料農産物の供給に甘んじるのではなく、
加工をできるだけ自分たちでやる、 それに必要な加工組合や生産組合づくりが重要だという認識を育て、
自立的なくらしの向上を進める機会を生み出していくという目標をもっています。
先進国の消費者はこのフェアトレード運動を通じて、 一般輸入品よりも割高であっても、
途上国の生産者の顔が見える関係を通じて、 「安ければよい」 とする考え方、
すなわち現代グローバリゼーションが消費者の利益だとする新自由主義イデオロギーに絡み取られた消費者の意識を変えていく機会を得ることができます。
わが国は世界でトップクラスの農産物輸入国です。 しかも、 輸入品のなかで熱帯産品は、
途上国からの輸入が高い割合を占めますが、 世界の貿易量のなかでわが国の輸入は、
コーヒー豆の33.2万トン (6.9%で世界第3位の輸入国)、 砂糖の157万トン
(4.6%で世界第4位) などを筆頭にたいへんなものです。 したがって、
熱帯産品の大市場であるわが国におけるフェアトレード運動の前進は、 途上国支援で大きな役割を果たすことができます。
わが国の食品流通において無視できない位置を占める生協の海外商品事業において、
より本格的なフェアトレード運動が期待されています。 生協のフェアトレード運動の前進は、
スーパーマーケット・チェーンや外食産業界への 「良いビジネス」 への圧力になるでしょう。
現在の、 また今後力を入れたい研究内容をお聞かせください。
地域経済社会の疲弊、 とりわけ深刻な農村地域の過疎化・高齢化のなかで、
総合農協が好むと好まざるとにかかわらず、 地域社会で起こる問題に主体として関わらざるを得ない状況にあることに、
もっか最大の関心があります。
グローバル化の中で地域をどう再生していくことができるのか?経済評論家の内橋克人さんは、
これからの地域は 「食とケアとエネルギーの自立」 が求められるとしています。
私は、 内橋さんのこの主張に賛成します。 そして、 そのような地域の自立を実現していくには、
地域住民の協同運動をどう組織していくかという重要な問題があります。 農協、
生協などが、 いろいろな形で生まれてくる住民運動とネットワークを組んでいく、
つまり地域再生にむけて協同していくことが、 今、 求められているのではないでしょうか。
そこで、 生協に今求められるのは、 組合員利益の追求を地域社会の再生と結びつけるという観点を持つということではないでしょうか。
組合員、 職員が住む地域が今どうなっているのかに生協トップは思いをはせるべきです。
地域の経済社会の再生に貢献できるかどうかが、 協同組合に存在意義があるのかどうかの試金石になっている、
というのが私の考えです。 その点で、 生協陣営は農協陣営に学ぶことがたくさんあります。
研究者としての私の課題は、 日本農業・農村、 地域の正確な現状分析をもとに、
それを変革していく道筋の理論構築に参加するということです。
協同組合とかかわってこられたお話をお聞かせください。
京大経済学部の4回生からだったと思います。 京大生協の総代、 大学院生の時には書籍委員を経験しています。
私にとっての最初の生協運動でした。 助手に採用された大阪外大では理事をさせていただきました。
その当時は、 ならコープの前理事長の瀧川さんが専務をやっていた時でした。
金沢大学時代では、 大学生協常任理事と石川生協の学識理事をさせていただきました。
石川生協の理事会メンバーと 「生協研究会」 を組織して、 毎月1回の研究会で関係書籍を輪読し、
研究会の仕上げには理事長や専務も参加するイタリア生協 (フィレンツェ・ボローニア)
視察旅行をやりました。 この視察旅行に味をしめた私は、 その後2、
3年ごとに協同組合や農村 「スタディツアー」 を企画することになりました。
つい先月の9月には、 7泊9日の 「NPO法人食農研センター主催イタリアのアグリツーリズモとスローフード運動を訪ねるスタディツアー」
(30名) を企画し、 実施しました。 次に狙っているのは、 「協同組合運動の故郷と現代を訪ねるスタディツアー」
(イギリスでロッチデールとニューラナーク、 イタリアでウニコープ・フィレンツェかコープ・アドリアティカ)
ですが、 研究所が主催する2008年度事業として企画してみませんか。
九州大学時代には、 エフコープの学識理事を3期6年やりました。 実験的に
「フェアトレード・コーヒー」 を共同購入にとりあげてもらっています。
当研究所について感じていることをお聞かせください
くらしと協同の研究所が設立された時、 理事長、 所長の木原先生、
野村先生は私が京大経済学部に入学した時の教官でしたので、 研究所は、
私にとって青春時代に舞い戻った感がありました。
石川生協理事、 エフコープ理事の職務も、 研究所研究員として得られる情報があったればこそでした。
今も続いている 「学識理事・監事交流会」 は、 私が 「学識理事がどのように生協運営にかかわっているのか、
交流する場が必要ではないか」 と提言したことが、 ひとつの機縁になって実現したのは嬉しいことです。
また、 ICA宣言の起草委員でもあるミュンクナー教授 (ドイツ・マールブルク大学)
の講演会がくらしと協同の研究所で10年前に開催され、 懇親会の会場で名刺交換をさせていただきました。
デンマークやアイルランドの酪農協同組合の現地調査が行えたのは、 ミュンクナー教授の力添えがあってのことでした。
私の研究活動にとっても、 研究所はたいへんありがたい存在です。
最後に大事にしている座右の銘は?
指導教官であった山岡先生がよく語られておられたfestina lente
(急げゆっくり、 または、 急がば廻れ) ということばを座右の銘にしています。
というのは、 私が京大大学院から大阪外大の助手として赴任する際に、
山岡先生が一言私を励ましてくださったのが、 「村田君は頑張り屋さんだからね」
でした。 およそ頭脳明晰とはいいがたい私にとって、 「努力すればいつかは報われる」、
「じっくり粘る以外にない」 という意味だと考えてきました。 だから、
夏目漱石が、 死去する4ヶ月前に、 若い芥川龍之介と久米正雄に当てた手紙
(大正5年8月21日) で、 「無暗にあせってはいけません。 ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です」
と諭している言葉も大事にしてきたつもりです。
<プロフィール>
村田 武 (むらた たけし)
愛媛大学農学部教授
大阪外国語大学ドイツ語学科、 金沢大学経済学部、 九州大学大学院農学研究院を経て、
現職。
金沢大学、 九州大学名誉教授
<主な所属学会>
日本農業市場学会、 日本協同組合学会、 日本農業経済学会、 国際経済学会、
政治経済・経済史学会
<主なテーマ>
WTO体制と農業政策、 アグリビジネスと協同組合、 フエアトレード運動